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kenchicjunreiのブログ2nd

Author:kenchicjunrei 日々の生活の関心ごとと建築とか、投資、金融政策、支配層のこと、などについて書いています。 記事の多いカテゴリー: 歴史・日本建国 (26)、核と人工知能 (38)、金融と起こされる事件 (45)、金融経済投資 (44)

神武天皇も崇神天皇も垂仁天皇も卑弥呼も、大物主もスサノオもニギハヤヒも、豊国、現・筑豊に居た。日本書紀に記されていた卑弥呼らしき人物の痕跡。卑弥呼の墓は最後の殉葬。そのあと埴輪が豊国、現・筑豊で誕生。 



神武天皇の東征。神武は瀬戸内、近畿へと東征しなかった。近畿にヤマト王朝の元をつくったわけではない。

神武天皇は熊本県「阿蘇郡蘇陽町(現・山都町)斗塩」で生誕し、熊本県「鹿本郡菊鹿町」(旧・肥後国山鹿郡日向村)の吾平山のふもとで育ち、そして父ウガヤフキアエズと、熊本県火国から福岡県筑紫国、豊国へと東征に出発した。



神武天皇の東征と大和王朝創始のはなしは、九州豊国の天の香具山への東征、ニギハヤヒの倭の奴(ぬ)国を制覇して、天の香具山のふもとの橿原の宮に於いて、邪馬臺國を創始した、という故事、と地名を、

後代に、近畿に移植して、初めからここにあったとする近畿大和政権、を正統の歴史とする、偽の歴史書、古事記、日本書紀を、作り上げた。

九州豊国の、神武天皇と邪馬臺國、は 捻じ曲げられ、隠蔽され、破棄され、抹殺されてきた、のである




■神武天皇が、九州豊国に邪馬臺國(やまと国)を創始するまで


・現・福岡県の鞍手郡誌(射手引神社社伝)に、神武・東征コース が詳しく書かれている。

・現・福岡県香春町の香春岳一の岳 畝傍山の東南に橿原の宮 神武天皇の皇居

・現・福岡県香春町の香春岳一の岳 畝傍山の東北に眠る おほきんさん 神武天皇の墳墓

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出典: 「神武は筑豊に東征した」福永晋三氏



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現・田川郡香春町に鎮座する香春岳(倭三山)
天香山(香春岳三の岳)畝傍山(香春岳一の岳)
出典: 「神武は筑豊に東征した」福永晋三氏



●神武の第ニ次東征。吉野、ヤタガラス、熊野といった固有名詞の元の起源
(奈良三重の吉野、ヤタガラス、熊野は、豊国オリジナルの偽物模造品)

神武は、皇子手研耳命(タギシミミノミコト)をともなって、吉野のクズ(現・大分県玖珠町の玖珠)族を味方にいれ、彦山、求菩提山(現・福岡県豊前市)に居たヤタガラス(八咫烏)の案内で彦山をくだり、香春岳の攻略にかかる。
赤銅のヤソタケル(八十梟師)を国見丘で倒し、(現・飯塚市の)「熊野の神邑」で磯城彦を倒す。

神武は、香春岳における長髄彦(ナガスネヒコ)=天忍人命 との戦いに決着をつけ、

●饒速日尊ニギハヤヒの倭の奴国(ぬ国)を制覇



■神武天皇 121年、現・福岡県田川郡香春町の香春岳のふもと橿原の宮に於いて、邪馬臺國(やまと国)朝廷として即位


・107年 (倭王天忍人命のとき)後漢の安帝に生口(食肉用の奴隷)一六O人を献ず。
倭の男王が死去して70~80年後に、倭王に女子を共立した。
・200年 卑弥呼即位。倭国大乱ののち女子共立して邪馬台(やまと)国の王として即位した。宗女にして跡を13歳で継いだ臺與(トヨ)。
・238年 卑弥呼が魏に使いを出した。


107年と238年のあいだにある辛酉の年は、121年である。

●121年 「辛酉年の春正月の夷辰朔に、天皇、橿原の宮に於いて帝位に即きたまふ。」邪馬臺(やまと)國を建国。


●男王(神武)から70~80年ののち、(200年に)、豊国邪馬臺國(やまと国)の王へと共立された卑弥呼。と、継ぎとなった卑弥呼の養女、臺與(トヨ)。この時代、倭国大乱は収まりようやくしばらく安穏が訪れた、かとおもわれた





(今回の記事の文は、以下の講演動画が出典元、書き起こし元、引用元になっています。)


■「倭国大乱と卑弥呼」 福永晋三 20180708 @福岡県立大学大講義室、


https://youtu.be/LkWhxZN46c0


「倭国大乱と卑弥呼」 福永晋三 20180708 @福岡県立大学大講義室
1:19:47
崗縣
2018/07/24 に公開
倭国大乱と卑弥呼 平成三〇年七月八日(日) 主催 田川広域観光協会 於 福岡県立大学大講義室 記紀万葉研究家「神功皇后紀を読む会」主宰 福永晋三




倭国大乱

倭国大乱はなぜ起きたのか。倭国大乱は誰が起こしたのか。
それは物部氏の本家争いでもあった



火の国の、のちの狗奴(ぬ)国の、筑紫国の、物部氏出身の吾平津媛との長男が手研耳命。豊国の物部氏出身の媛蹈鞴五十鈴媛命との皇子が神渟名川耳尊。
腹違いの皇子、神渟名川耳尊が、本来の長子朝廷、手研耳命を殺害して、王位を奪う


神武がニギハヤヒの奴(ぬ)国を打倒して、ニニギの系譜の火の国の、のちの狗奴(ぬ)国の、筑紫国の、物部氏が、殺害された物部氏出身の手研耳命のほうが、物部氏としては本流なのだから、神武が打倒したニギハヤヒの奴(ぬ)国の系譜の豊国にいた物部氏出身の神渟名川耳尊のちの綏靖天皇をやっつけてしまわなければ、とても納得はできない。

実質、倭国大乱をおこしていたのは、筑紫国と狗奴(ぬ)国であり、そこの物部氏だった




神日本磐余彦=神武天皇の系譜

●火の国菊池の時代

妃:吾平津媛(あいらつひめ)
日向国吾田邑出身。火闌降命(神武天皇の大伯父)の娘であり[5]、吾平津媛と神武天皇はいとこ違いの関係にあった。『古事記』によれば兄がおり、その兄は阿多の小椅君だったという。火の国の、のちの狗奴(ぬ)国の、筑紫国の、物部氏

皇子:手研耳命(たぎしみみ の みこと)


●豊国で邪馬臺國(やまと国)朝廷をひらくとき

皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
事代主神の娘。豊国の物部氏

皇子:彦八井耳命(ひこやいみみ の みこと、『先代旧事本紀』は綏靖天皇の弟とする)
第2皇子:神八井耳命(かむやいみみ の みこと)
多氏・火氏・阿蘇氏・科野国造等の祖(紀・記)。
第3皇子:神渟名川耳尊(かむぬなかわみみ の みこと)
のちの綏靖天皇




121年 神武天皇 現・福岡県田川郡香春町の香春岳のふもと橿原の宮に於いて、邪馬臺國(やまと国)朝廷として即位



136年春3月、神日本磐余彦・神武天皇崩ず


時に神渟名川耳尊、特に心を喪葬の事に留む。その庶兄(いろね)手研耳命、行年已(すで)に長(た)けて、久しく朝機を歴(へ)たり」。( ※すでに手研耳命は、神武天皇崩ず直後から朝廷としてのまつりごとをおこなっていた。)


139年、「(手研耳命、)二人の弟を害せむことを図る。時に、太歳(おおとし)己卯(つちのとう)」。( ※日本書紀では、これを「手研耳命の乱」としているが、真相は企画から実行まで「神渟名川耳尊兄弟の乱」だったようだ)

「犀川よ 雲立ちわたり 畝尾山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」
(神渟名川耳尊の母が神渟名川耳尊兄弟に送った危険が迫っていることを知らせたふみ)


139年 皇子神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと) 手研耳命大王を弑(しい)し、王位を奪う



神渟名川耳尊がその兄の持つ弓矢を取って、手研耳命を射る。一の矢が胸にあたり、二の矢が背に当たり、ついに殺した。

手研耳命(たぎしみみのみこと)暗殺さる


その7年後。

146~189年 桓・霊の間、倭国大乱。(謝承・范曄後漢書) 
「豊国 対 火国」
倭国大いに乱れ、歴年(146~189)主無し





綏靖の陵
倭(やまと)の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)
(田川市糒の天神山古墳4基中の一か、付近に月の輪)に葬る




●卑弥呼即位から遣魏使

日本書紀本文には卑弥呼の記載はいっさいない。神功皇后記に註として卑弥呼を引用しているのみ。


200年(196~200 建安年間) 卑弥呼共立か。(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀・神功皇后紀)

230年 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定狗奴国)および亶州(推定東鯷国)を求む」、三国志呉書「孫権伝」黄竜二年

233年 倭の女王卑弥呼、使を遣はし来聘す。(新羅本義173)

238年 景初二年六月、邪馬臺國の女王(にして神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡に大夫難升米等を遣はす。(魏志)

240年 魏使邪馬台国に至る





日本書紀では、倭国大乱はどのようにして収まったのか

そのとき卑弥呼はどのようにかかわり、邪馬臺國の女王として共立される支持をえたのか



174年崇神天皇即位

174年 「国内に疫病が多く、民の大半が死亡する」。

(※研究によると、このときの疫病とは、豊後地方の火山噴火による亜硫酸ガスが豊国に襲ってきたことによるらしい。この火山性のガスは幾度も豊国を襲っていて、香春岳は草木も生えず石灰岩むき出し山容だったし、水は酸性で飲用に不適で、そこで斉明天皇の時代に、香春岳の石灰で酸性を中和する地下水路「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」の大整備をすることになる。(奈良の狂心の渠は偽物、豊国オリジナルの模造品))


179年 「人民が流浪し、あるものは反乱した。天皇は天照大神・倭大国魂(やまとおおくにたま)(=大物主神(おおものぬしのかみ))、二神を、宮殿内に共に祭り、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)に罪を請うた」


180年春、 「時に、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命(あまてらすやまとととびももそひめのみこと)に憑いて、我を祭らば国は治まるであろうと告げた。神の教えのとおりに祭ったが霊験ははなかった」


180年秋、 (※天皇は神明倭迹迹日百襲姫命に言って)「天下に布告し、大田田根子(おおたたねこ)を求めると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)(現・福岡県宗像市須恵)に彼捜し当て、11月に大物主神を祭らせた。すると、疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わった。」



大田田根子(おおたたねこ)=大物主の子孫

この神酒(みき)は、わが神酒ならず倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久



183 武埴安彦(たけはにやすびこ)の乱。
184 四道将軍が、戎夷(ひな)を平定。

霊帝の光和(174~184)中、倭国乱相攻伐歴年



●大物主=スサノオ素戔嗚の子孫

●田川郡川崎町大字池尻字後藤寺原 大三輪神社 
祭神:大物主神
本社は大石神社 その第一の別宮


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田川郡川崎町大字池尻字後藤寺原 大三輪神社
出典: 「倭国大乱と卑弥呼」 福永晋三氏



『大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命(あまてらすやまとととびももそひめのみこと)に憑いて』

神明倭迹迹日百襲姫命(あまてらす・やまと・ととび・ももそひめ・のみこと)=卑弥呼

倭(やまと)成す 大物主 の妻=卑弥呼




●※不思議なことに、豊国出雲にいたスサノオを豊国でニギハヤヒが処刑し、そのニギハヤヒの奴(ぬ)国を神武が滅ぼし豊国にヤマト国を建てた。不思議なことに、それぞれが日本建国の敵対関係にあったこの三人の人物はその死後は、日本建国を象徴し、一神教的な統一原理ではなく、また伊勢神道・島根の出雲大社の成立後とは異なる、さらにいえば、大物主が天照大神に「国譲り」してという話が造られ伊勢神道が、出雲神道を従え、さらに秦氏によって隠れユダヤ教になって、隠れ一神教的にやまと国家を統べる神に向かう、とは逆に、まだ豊国の出雲の大物主のほうが「やまとをつくった主体」とみなされていて、豊国ではスサノオとニギハヤヒと神武が対立敵対を越えて、日本統合のゆるやかな共生のシンボル=神々となっていく。

ニギハヤヒ=天照大神と、スサノオと、神武は、邪馬臺國の物部氏のなかで、この三者は多神教的に融合している。

スサノオの子孫の大物主、ニギハヤヒ=男神天照大神の子孫の物部氏における天照大神は、神武の子孫の物部氏では、それぞれが神となって、それぞれを朝廷が祭ることで、あるいは卑弥呼が女神天照大神を名乗り大物主の妻として大物主を気道で巫女することで、ようやく筑紫国の、狗奴国の、物部氏は、納得し、物部氏の本家争いの矛を収めた。




●日本書紀の本文には卑弥呼のことはまったく書かれていないが、先代旧事本紀の、天孫本紀には、それらしいこと、は書かれている。

先代旧事本紀の、天孫本紀は、物部氏の始祖であるニギハヤヒに始まる、物部氏の天皇家関係である天孫族の系譜が書かれている。

9世のところに卑弥呼をおもわせる、ひめのみこと。そして、11世、おとよのみこと。


先代旧事本紀 天孫本紀

天照孁貴(あまてらすひるめむち)の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)は、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=ニギハヤヒ(=天照大神)、をお生みになった。

天照太神と高皇産霊尊の、両方のご子孫としてお生まれになった。そのため、天孫といい、また皇孫という。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)天道日女命を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになった

天降って、饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶り妃として、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)をお生みになった

饒速日尊の孫・天村雲命(あまのむらくものみこと)
九世孫・弟彦命(おとひこのみこと)。
妹に日女命(ひめのみこと)




●日本書紀本文では、名指しでは卑弥呼はでてこないが、ほとんど卑弥呼と思われる倭迹迹日百襲姫命という、大物主の妻になる人物が、日本書紀には登場している

『(※大物主)神は昼に現れないで夜だけ来た。姫は朝に神の麗しい姿を見たいといった。大神は翌朝姫の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならないと答えた。翌朝櫛箱を見ると麗しい小さな蛇がいた。

姫は驚き叫んだ。大神はたちまち人の姿となって妻に言った。「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥をかかせてやる。」と。神は空に上り三輪山(香春岳)に帰った。
姫は仰ぎ見て後悔し、ドスンと座った。すると箸に陰部をついて死んだ。』


時の人はその墓を名付けて、箸墓といった。

この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。また、三輪山(香春岳)を望む、豊前国の現・福岡県京都郡みやこ町にある大阪山の、石を運んで造る

「大阪に継ぎ登れる石群(いしむら)を(民が列をつくって)手(た)ごしに越さば越しかてむかも(いや、手渡しで越すことは決してできない)」。

「大阪に継ぎ登れる石群」を用いた建造物は豊前国の現・福岡県京都郡みやこ町の大阪から登った「五所ヶ谷神籠石」を指すようだ



●殉葬だった卑弥呼の墓

239年、垂仁天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が死んだ。
この時、「近習の者を集め、すべて生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」(殉葬)とある。
日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声をあげて泣いた。ついに死ぬと、遺体が腐り、犬や烏が集まって遺体を食べた。天皇は、これを悲しみ、以後殉葬を止めよと言った。

魏志倭人伝に卑弥呼の墓が記され、「殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。垂仁紀の記事がこれに該当することは明らかである




●現・福岡県嘉穂郡桂川(けいせん)町土師の故事 埴輪のはじまり

241年、皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が死んだ。
垂仁天皇は殉葬を止めようとして群臣に相談する。
大相撲力士の起源人物でもある、野見宿祢(のみのすくね)が良策を思いつく。彼は使者を派遣し、出雲(現・飯塚市出雲)国の土部(はじべ)百人を呼び寄せた。
自ら指揮して、粘土を取って、人・馬やいろいろな物の形を造って、天皇に献上して申し上げた。「今後、この土物(はに)を生きた人に換えて陵(みささぎ)に立て、後の世のしきたりとなさいませ」


天皇は喜び、「以後、陵墓に必ずこの土物を立て、人を傷つけてはならない」と命じた。
野見宿祢に陶器を造る土地を与え、土部臣(はじのおみ)といった。

現・福岡県嘉穂郡桂川(けいせん)町土師の故事



以後は古墳には埴輪が立てられた


奈良の箸墓古墳では、宮内庁の職員が箸墓古墳の周りから円形埴輪を発見している。

魏志倭人伝に卑弥呼の墓が記され、「殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。
卑弥呼の墓は、倭彦命(やまとひこのみこと)の死のあとで、最後の殉葬だった。


埴輪が出ていれば、

●奈良の箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではない


卑弥呼の墓は殉葬墓。埴輪がでないはず。



(奈良の箸墓古墳は、奈良の神武天皇陵、近畿の仁徳天皇陵と同様の、豊国オリジナルの偽物模造品)





神武天皇も崇神天皇も垂仁天皇も卑弥呼も、大物主もスサノオもニギハヤヒも、それぞれのときに、豊国=現・筑豊に居た


日本書紀を近畿の大和王朝のふみ、と読めば、日本書紀は偽物の書で、故事と地名を偽造捏造した贋の史書ということになる。

日本書紀を卑弥呼をふくめて九州豊国の邪馬臺國(やまと国)王朝のふみ、と読めば、日本書紀は故事と地名はおおむね本当のことが書かれている






== FIN ==

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