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孝明天皇・睦仁親王、「堀川政略」は偽天皇ばなしだ、堀川辰吉郎は偽天皇ばなしだ、としたのは、天皇中枢に入り込む偽皇統勢力の奇々怪々があるから。
「そのようにして、「孝明天皇は偽装崩御」、とカップリングされた「孝明天皇・睦仁親王暗殺説」、京都北朝皇統の睦仁親王・東京南朝皇統の寄兵隊天皇の「皇統二元体制」、京都裏天皇「堀川辰吉郎」、までの謀議、企画を「堀川政略」という、といった偽天皇ばなしがある。」
「堀川辰吉郎は、明治天皇の側室、千種任子の子供というお話で、大正天皇の生誕と重なったため、混乱を避けるため民間人の頭山満に預けられた、と言う、といった偽天皇ばなしだ。」
と前回の記事で、孝明天皇・睦仁親王、「堀川政略」は偽天皇ばなしだ、堀川辰吉郎は偽天皇ばなしだ、としたのは、天皇中枢に入り込む偽皇統勢力の奇々怪々があるから。
天皇の世継ぎ問題にも入り込んだ、偽皇統必要悪問題。
北朝系だ、南朝系だ、と錦の御旗みたいに大事にしても、いまでは全く無意味である。北朝系南朝系成立以前でも、後鳥羽上皇以降、皇統は偽皇統必要悪で入り乱れ、北朝南朝の区別は意味をなさない。
■孝明天皇の子=睦仁親王=京都明治天皇は系譜として、大正天皇のほかに、千種の典待に生ませた第1子があった。それが中丸薫の父である堀川辰吉郎。
中丸薫の父である堀川辰吉郎が、東京明治天皇=大室寅之祐の子である、と佐野千遥氏がするのは、勘違いミスをしない佐野千遥氏のサルが木から落ちた的ミスか。
大室寅之祐は南朝でなく北朝系であった、と佐野千遥氏がするのは、なんら根拠は示されていない。
孝明天皇睦仁親王暗殺事件は知ってる人にとっては、戦後になっても1990年代になっても、右翼フィクサー田中光顕以外の人間には、簡単に公開できるような話ではなかった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=252771
暴走する悪徳エリートの所業
252771 明治天皇のちょっと興味のある話
大西敏博 ( 50歳代 和歌山 会社員 11/06/09 PM08 より引用
とても信じられない写真があります。
明治天皇をはじめ、明治維新に貢献し人たちが一同に会し、意見交換した時の写真です。この写真が本物であれば、明治天皇は、長州藩で育てられた武士の可能性が高くなります。
明治天皇ーPageON(リンク)より
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この写真は、写真術の祖、長崎大村出身の写真家、上野彦馬の写真スタディオでフルベッキ博士の子どもも交え、和やかな雰囲気で記念撮影されたものである。
明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載したが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介された。
このため現在まで分からなかったのである。
また、この写真は、宗教記録として、フルベッキ博士が所持し、絶対に手放さなかったものを、戸川残花の強い要望により借り受けたものである。
(上記)で明治天皇と西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬をはじめとする明治維新に貢献した人々の集合写真を紹介した。
その後、平成14年5月、明治天皇の孫に当たられる中丸薫さん(国際政治評論家)が「真実のともし火を消してはならない」(サンマーク出版)と言う本を出版され、同じ写真が紹介された。
私も本心、あの写真は本物なのか、偽者なのか半信半疑でいたが、これで私の心の中では、かなり信憑性が高まった。
明治天皇には大正天皇のほかに、千種の典待に生ませた第1子があった。それが中丸薫の父である堀川辰吉郎だそうである。
なぜ長男の堀川が皇位を継承できなかったかは、大正天皇の母である柳原の局の背後に居たのが大隈重信であり、千種の局の背後に居たのが岩倉具視であって、
当事の政治状況は、大隈派と組んで国政を進めなければ、国が成り立たない状況に立たされており、明治天皇の判断で大正天皇が皇位を継承され、堀川は頭山満に預けられたのだそうである。
「謎多き明治天皇」―明治天皇すり替え説―
孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられたというのである。(詳しくは中丸薫さんの本を買って見ていただきたい)
天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。
しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというのである。
孝明天皇は中山慶子の間に睦仁親王をもうけたが、睦仁親王は女官たちに囲まれて育ち神経がこまやかで気が弱かったとされている。
そして孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。
また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。
また、「中山忠能日記」によれば、1867年7月8日「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」とある。16歳にもなって女官達と遊ぶとは、あまりにも子ども過ぎて知能も遅れていたのではないか。
日記には、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせたことなどの不審な記述が載っている。
この仏像はたぶんに睦仁の亡骸ではないかと想像できる。睦仁は岩倉具視らによって買収された侍医の手で暗殺されたのではないだろうかと中丸薫さんは推測されている。
こうした一連の事情を考慮すると、大室寅之祐(明治天皇)は即位されるまでは比較的自由な身でありまた、長州に居たことで長州藩、薩摩藩の武士とも交流があったことが考えられ、大室寅之祐と明治維新に貢献した人達が一緒に写真に収まることが出来たのか理解できる気がする。
又政界の一部の圧迫を受けてこの写真の本当のことが発表されなかった理由も理解できる。(この写真は雑誌「太陽」に佐賀藩の学生達として紹介された)
■孝明天皇に皇統が消えたら悪いというので、孝明天皇に繋がりのある男=久邇宮朝彦親王=青蓮院という悪名を持つ坊主、が用意された。明治の皇族達はみんなその人の子ども達です
https://ameblo.jp/himetoatomu/entry-12089205286.html より引用
朝彦親王
久邇宮朝彦親王
朝彦親王というのがいまして、これは青蓮院という悪名を持つ坊主が、天皇家とほどんど関係がないんですけど、明治天皇ができた時に万が一の場合に、皇統が消えたら悪いというので、いくらか孝明天皇に繋がりのある男を探したら、おりました。
それを朝彦親王として、そこから日本の皇族たちが全部生まれてきます。明治の皇族達はみんなその人の子ども達です。
朝彦親王も、明治天皇は毎日娼妓の幽霊を、孝明天皇が亡霊として娼妓の姿として現れ、毎日泣きじゃくっているという日記を残しています。
もうひとつ大事なことがあります。皆さんは御存知かもしれませんが、徳川家康を書いた、山岡荘八というのがいます。大ベストセラーでした。この人が、「明治天皇」という小説を書いてます。不思議な事に、明治時代になっての天皇を書かず、孝明天皇と、その后のことを書いています。そして中山家の兄弟になる息子が、中山忠光と言いますけど、この人が長州の人によって殺されます。逆らったんですね。殺されます。
そういう具体的なことを山岡荘八は書いて、明治天皇という題をつけています。山岡荘八は見事に明治天皇誕生の裏を描いてますが、ただ、その孝明天皇も睦人も殺されたというところには、一行も触れられなかったと思いますね、戦後書いてますから。
■睦仁親王(初代裏天皇=京都明治天皇)は、流産か夭折。孝明天皇と中山慶子の養子に入った替え玉、伏見宮貞教と鷹司積子との間に出来た子供、だった。
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=101125
[竹下雅敏氏]孝明天皇と中山慶子の養子に入った睦仁親王(初代裏天皇) ~重要な役割を果たした伏見宮家、鷹司家~
2015/11/09 10:46 PM より引用
竹下雅敏氏からの情報です。
ウィキペディアで明治天皇の后である昭憲皇太后を調べると、下の写真の2枚が出て来ます。この2人は別人です。和服姿が本物の昭憲皇太后で、洋服の方は替え玉です。
顔は似ていますが、ラグビーかアメフトの選手だったのではと思える替え玉のたくましい肩を見て、華奢ななで肩の本物と同一人物だと思う方がどうかしています。
よく言われることですが、明治天皇の后なのだから、昭憲皇后が本当のはずです。それを皇太后と呼ばなければならなかったことからも、明治天皇が替え玉であったということの傍証となります。
さて、冒頭の記事にある通り、本物の孝明天皇と中山慶子との子・睦仁(祐宮)は、流産で死亡しているのです。写真にある初代裏天皇となった睦仁親王は、孝明天皇の子ではありません。
この人物は、伏見宮貞教と鷹司積子との子を養子としてもらい受けたのです。この部分は、私の直観に依ります。
明治天皇は、1852年に生まれたことになっており、2人が結婚したのが1855年なので、おそらくこの人物を養子としてもらい受ける間の3年間は、別の赤ちゃんを睦仁として育てていた可能性が高いと思います。
冒頭の記事では、“誘拐して来た男児をすり替えて”とあります。鷹司積子が産んだ子供を、途中で入れ替えたのだと思います。そうすると、写真の人物(初代裏天皇)はおそらく3歳ほど年齢が若いと考えられ、実年齢は13歳ではないかと思います。
系図を見ると、こうした陰謀の中心に孝明天皇が居たことはもちろんですが、伏見宮家、鷹司家が重要な役割を果たしているのが見て取れます。この両家の中に八咫烏の12烏の中の2名が居ると考えるのは自然なことです。
(竹下雅敏)
== FIN ==