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kenchicjunreiのブログ2nd

Author:kenchicjunrei 日々の生活の関心ごとと建築とか、投資、金融政策、支配層のこと、などについて書いています。 記事の多いカテゴリー: 歴史・日本建国 (26)、核と人工知能 (38)、金融と起こされる事件 (45)、金融経済投資 (44)

日本書紀が隠蔽し、または正しく書かなかったこと。神武、卑弥呼、ヤマトタケル、神功、の真実。それと筑紫国筑後みぬまの皇都(久留米)の紀氏やまと王朝と豊国天氏やまと王朝の並立パラレルワールド。 



■神武の東征は、火の国菊池から火の国肥前・筑紫国・豊国への東征が、真実の東征
神武は近畿へ東征などしなかった。

しかしこれに、瀬戸内を伝って近畿へ東征の部分を、神武が倒した倭奴(ぬ)国の王・ニギハヤヒ(男神・天照大神)の次男のウマシマジ宇摩志麻遅命が率いる物部族による、豊国から近畿への、ニギハヤヒを始祖とする物部氏東漸(東征)を、すり替えて持ってきて、神武は瀬戸内を伝って近畿へ東征した、としたもの。よくある、「すり替え、入れ替え」である。


■200年代の日本列島の西日本 九州に倭国(やまと国) と 近畿に東鯷(とうてい)国 

卑弥呼は九州・豊国の倭国やまと国で200年女王に。 神功は近畿の東鯷国敦賀の気比を出て320年頃、九州・豊国筑紫国を侵攻


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出典: 倭国北伐考 福永晋三先生


倭国 ・・・・ ・東鯷国
三韓の南 ・・ 三韓の東
魏志倭人伝 ・・魏略逸文・翰苑 
銅矛文化圏 ・ 銅鐸文化圏
後漢鏡 ・・・ 三角縁神獣鏡(鯷呉合作)
卑弥呼 ・・・ 神功
九州・倭国(豊国)・・ 近畿・東鯷国(丹波播磨)


紀元300年代までの日本建国時の日本原住の縄文人は、日本列島における弥生人による王権争奪で、ーーー 九州豊国に、神武天皇による、やまと(山門)国(邪馬臺國)、を作った王朝側の縄文のひとびとは、やまと(邪馬臺)王朝を倒しに来た侵略者、景行、神功によって、熊襲、土蜘蛛、はなたれ、耳垂れ、鬼、などと蔑称された。




■大足彦忍代別天皇(景行)の豊国北伐

子湯県(宮崎県児湯郡・西都市)に幸す。(日向国起源)

火の国句奴国=日向国の大帯日子命(景行)は、日向国から出発して豊前の国、豊の国を侵略し、筑後高良を拠点に肥前の国をも侵略した

句奴国との戦争(倭国大乱の結末)で敗れた卑弥呼から位を奪った句奴国の卑弥弓呼(ひみくこ)こそが、大帯日子命=景行、大足彦忍代別天皇である



■ヤマトタケル倭建命天皇の倭国防衛戦 倭建命天皇と大帯日子命(景行)との闘い


ヤマトタケルは景行の子ではない。ヤマトタケル倭建命天皇は豊の国を侵略する景行軍と倭国防衛のために戦った。


古事記 景行天皇記にある歌(倭建命天皇が詠った歌)


●故、爾くして御合して、其の御刀(みはかし)の草那藝の劍を以ちて、其の美夜受比賣の許に置きて伊服岐能山(いぶきのやま)の神を取りに幸行しき。 


其より幸行して、能煩野(のぼの)に到りし時に國を思ひて以ちて歌ひて曰
く、


●倭(夜麻登)は 國のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる
倭しうるはし


また歌ひて曰く、
●命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の熊樫が葉を 髻華に挿せ その子 此の歌は思國歌(くにしのひうた)なり



ヤマトタケルが倭国防衛戦の最後に登った伊服岐能山(いぶきのやま)とは、九州豊国のやまと国の山であり、近畿滋賀地方にある伊吹山ではない


小宮八幡宮=白鳥神社  (豊国 香春岳のふもと=現・田川郡香春町) 草那藝の劍を、美夜受比賣(みやずひめ)の許に置いた場所
祭神 やまと姫(豊姫) 

叔母のやまと姫(豊姫)から草那藝の劍が倭建命天皇に与えられる。

白鳥御陵の三基目は鞍手町の古物神社付近にあったことが仁徳紀に記されている


白鳥神社伝(田川市)
平安時代、最澄は唐への留学から帰朝するとき、船の舳先に止まるヤマトタケルの魂という白鳥を夢の中で見て、九州に来て、高羽川(田川)の岸辺、伊田の里(現・田川市伊田)で白鳥が舞い降りるのを見、そこに白鳥神社を建てた


倭建命天皇の子孫は= 孫の、忍熊ノ皇子(おしくまのみこ)。




■豊国に侵攻した神功皇后と、倭建命天皇の子孫の戦い


弱体化した九州豊国やまと王朝に対して、近畿の東鯷国から、ニギハヤヒ系の物部氏勢力の神功が挙兵した

神功軍の武振熊命(たけふるくまのみこと=海部氏一族)の侵攻で、豊国やまと王朝の皇子、ヤマトタケル倭建命天皇の孫の、忍熊(おしくま)ノ皇子は、入水を選ぶ。草那藝の劍を身に着けて

忍熊ノ皇子が川面に浮かび、草那藝の劍を、神功の家臣で(内縁の)夫の紀武内ノ宿禰が、奪う


勝門(かちど)姫(宗像の宮地嶽神社の祭神)、だるまにされる。神功は、宗像の釣川で勝門姫の手足を切り落としてそのうえに立ち、鮎を釣る。石殺す。



神武天皇が創設した邪馬臺國やまと王朝は倭建命天皇の子孫までの系譜は滅び、ここに神功皇后によって豊国邪馬臺王朝は滅亡した


若咲神社 若桜宮  豊国やまと王朝を滅ぼして、豊国に戻って天皇になった 神功の宮
 福岡県田川市川宮434

宇美八幡宮で 神功は応神を出産した
 福岡県糟屋郡宇美町



●鰐一族・和珥(わに)氏=黄色人種セム系のダビデの子孫=失われた2氏族は、ユダヤ3種の神器を持って、日本に遣って来た。旧約聖書とタルムードは持たず。

●古代真性ユダヤ鰐一族、日本原住民のYAP遺伝子を持つこの一族が、日本に戻って来たシュメールの神武天皇からヤマトタケル尊まで、の日本原住民のYAP遺伝子を持つ系譜に、合流した。。


(※神武天皇から卑弥呼、ヤマトタケル尊まで、の系譜である九州豊国の邪馬臺國(やまと国)王朝は、ニギハヤヒ系の神功による豊国征伐によって滅亡した。)




■今回のメインのテーマは、神功皇后軍の豊国筑紫国旧肥前征伐と紀氏王権成立 筑紫国筑後やまと国王朝 皇都水沼みぬま久留米 それに続く倭の五王の時代


・仲哀から応神まで79年空白=そのときが15代神功天皇= 豊国の神社では15代神功天皇 16代応神天皇・・・

呉王の夫差の子が、BC473年火の国菊池にやってきた 火の国菊池(のち句ぬ国)に神武が出た 

呉と連携の東鯷国の、ニギハヤヒ系譜の神功皇后が、火の国肥前と筑紫国、豊国を征伐し、神武が創始した豊国やまと王朝を滅ぼした

・神功よりおよそ半世紀まえに、豊国を荒らしまわった景行も筑後高良の仮宮を拠点に肥前を征伐した  

・ヤマトタケルが倭国防衛戦の最後に登った伊服岐能山(いぶきのやま)とは、九州豊国の やまと国の山であり、近畿地方にある伊吹山ではない。

神功皇后軍の豊国筑紫国征伐と 紀氏王権の 筑紫国やまと王朝成立 皇都筑紫国筑後みぬま三潴大善寺(::現・久留米市) それに続く倭の五王の時代

応神天皇の玄孫の継体天皇、神武が創始した豊国やまと王朝を復権 最後の5年間豊国に いわれ玉穂宮 稲荷神社 元号制創始 

倭国王 哲(磐井) 岩戸山古墳 別区に裁判所あと(律令制) 筑紫君磐井の乱 継体と争って敗れる


哲(磐井)の孫の牛慈 夜須評督となり 草那藝の劍を豊国側に返す

・欽明天皇558年 年号兄弟 やまと王朝東西に並立

開皇20年 600年筑紫国太宰府の、筑紫国やまと王朝(倭国本朝)の"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコが、豊国やまと王朝(倭国東朝)との、兄弟統治 筑紫年号と豊国年号が並立 太宰府は日本初の大規模条里制都市 遣隋使 官位十二階 十七条憲法 観世音寺or法興寺⇒ のち奈良に移築して法隆寺



大善寺玉垂宮所蔵 「吉山旧記」の本質


やまと王朝が 天氏王朝(豊国ー神武以来の王朝。神功皇后の侵攻でいったん途絶えるが、神功皇后自身が天皇に。応神天皇と続く、神功応神系譜の王朝に。)と、 紀氏王朝(筑紫国筑後みぬまー久留米・のち太宰府、の王朝)が 並立、パラレルワールドに。


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ゆすらちんりん 三潴(みずま)=水沼みぬまの皇都 出典: 倭国北伐考 福永晋三先生



紀氏王朝の起源 ヤマトタケルの孫の忍熊ノ皇子(おしくまのみこ)が川に浮かびあがり、神功の家臣、紀ノ武内宿禰が、草那藝の劍を奪う



■藤大臣=紀ノ武内宿禰の紀氏王権(皇都筑紫国筑後みぬま大善寺=現・久留米市)成立と 倭の五王の時代(皇都筑紫国みぬま大善寺=現・久留米市 のち皇都筑紫国太宰府) がつづく


大善寺玉垂宮 祭神 藤大臣=武内宿禰 ゆすらちんぎん ほか 

369年、藤大臣=紀ノ武内宿禰の紀氏王権やまと王朝成立(皇都・筑紫国筑後みぬま大善寺=現・久留米市) 



■大善寺玉垂宮が所蔵する 吉山旧記(薬師寺旧記) 吉山家=薬師寺家 

天武天皇のとき、みぬま久留米の薬師寺を解体近畿奈良に移築 薬師寺を解体近畿奈良に移築したとき久留米の薬師寺の住職だった方(親子二人)が抗議の自殺、このことが吉山旧記に書かれている。 久留米薬師寺の仏像は唐の仏像だった、現在国宝に。 


句ぬ国の北限 筑後久留米を支配していた新羅の王子の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を神功軍が征伐 百済の王子うら征伐。 

神功軍の武振熊命=海部氏  神功と仮面夫婦の仲哀(ヤマトタケルの皇子とされた)は香春の香椎の宮で病死

藤大臣 神功  着色玉垂宮縁起絵  大善寺玉垂宮「鬼夜」 ゆすらちんぎんの首をはねた正月七日



https://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11851164998.html

国宝大神社展 絹本着色玉垂宮縁起絵に逆賊磐井が描かれていた!

20140320
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川清久


驚愕の絹本着色玉垂宮縁起絵

さて、下の絵図は国宝大神社展で公開された大善寺玉垂宮の縁起絵です。

南北朝期に作成され同社に所蔵されてきたものでしたが、管理上の問題から明治期に京都大学に移されていたものです。

十年ほど前に行われた同社千九百年祭のために短期間同社で公開されていますが、事実上初めて広く一般に公開されたものです。


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絹本着色玉垂宮縁起絵



縁起絵は二幅あります。一幅は三韓の国王が神功皇后に平伏しているなど半島の倭国を描いたものであり、こちらの第二幅は九州王朝の中枢領域大善寺玉垂宮周辺を描いたものです

絵には高三潴廟院、大川の酒見と判読可能な文字も書かれており、これらの配置から真中の川は広川(アレナリ)となり、右手の丘陵は岩戸山を描いたもののようです。

事実、大神社展で販売もされた展示資料集にも“石人、石馬”が描かれているという表現があることから(購入された方も多いはずでしょうからお持ちの方はご確認ください)、その点からも岩戸山であることが判ります。


この重要性をいち早く指摘した菊池(川流域)地名研究会の吉田正一氏の解説によれば、さらに色々なものが見えてきます。

驚くのはその山上の武人像です。あたかも亡霊のように薄く描かれていますが、もしも、岩戸山となると山上の武人は当然にも「磐井の乱」の逆賊、磐井その人ということになります。

冑の上にはカラスが描かれており(三本脚ではありませんが)、その冑も岩戸山展示館にあるドイツ陸軍型の特徴的なそれを思わせます。

この縁起絵は南朝方が九州全土を制圧した時期に作られたものであることから、山裾の牛車は兼良親王を意味しているようでもあり、あたかも自らを磐井に擬えているようにも思えます。

もしそうであれば、驚愕の仮説、“南朝方は九州王朝の存在を知っていた”もあり得るように思えてきます。



神功による筑紫国筑後久留米(ゆすらちんりん)征伐、藤大臣=紀ノ武内宿禰の紀氏王権やまと王朝成立を、日本書紀が隠ぺいし、吉山旧記が伝えた 




■大善寺・玉垂宮本殿の裏の、原・薬師寺を、「奈良平城京薬師寺として移築」

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/01/post-9de4.html

2018年1月 2日 (火)

大善寺・玉垂宮からの「薬師寺の移築」の仮説について


「原薬師寺」が福岡県の大善寺・玉垂宮(付近?)から、藤原京の「元薬師寺」へ移築されたとする室伏志畔氏の仮説に付き,そのいきさつが書かれているものを見つけました。
それをアップします。

だいぶ前に古田さんとご一緒した旅行で「鬼夜」を見学した。
その時には,まさか薬師寺のことに関係するとは思っていなかった。



大善寺玉垂宮の鬼夜

http://www.nponia.com/page40-oniyo.html

吉山旧記(薬師寺旧記)

https://hanzan-qazwsxedc.jimdo.com/紀氏王権の成立/吉山旧記/


※ 神武と卑弥呼と神功 邪馬臺国年表/大善寺玉垂宮と久留米の古代史より

『吉山旧記』は、江戸時代に入る直前、関ヶ原の戦い(1600年)かその翌年に元の宮司の家柄の吉山家が、巻物だった本を冊子本に摸し替えた時の書写ということである。この吉山旧記は、別名薬師寺旧記ともいわれる。

この大善寺玉垂宮の宮司の家柄は、代々代わっていて、吉山家が就いたり薬師寺家が就いたりして、現在は、隅(くま) 家が就いている。

吉山旧記の事を別名、薬師寺旧記というのは、薬師寺を名乗られた時の宮司が吉山家と決別して、現在は、鹿嶋市に居られる。その原本は、そこの鹿嶋市にあり、ここ大善寺玉垂宮には無い。
  

薬師寺のいう名前であるが、ここ大善寺玉垂宮を訪れた時に本殿の裏に「塞の神」が祀られているそこの前に、昔の五重塔か三重塔かは不明だが、半分か三分の一に割れた塔の心礎と思われる石が置いてあった。その石は、鬼夜保存会会長をされていた光山利雄さんが近くの夜明の田んぼから拾って持ってきたと言われた。

心礎らしいその石には柱の跡と思われる円の形が綺麗に描かれれいる。そこに九州古代史の会の兼川晋さんが新聞紙を当てて周辺を丁寧になぞって綺麗に再現した。その新聞紙を室伏志畔が奈良に持って行って、薬師寺東塔の心礎に当てた。その時、一緒に同行していた大芝英雄さんの名言が「合うでー」。寸法がピッタリ合った。室伏志畔が筑紫(福岡県)にあったお寺が、奈良・京都のお寺に移築されたとしているその考えが成り立つ。
  

これが福岡県内の廃寺であり、福岡県には廃寺が多すぎる。廃寺はおかしい。奈良時代は、仏教は国の教えとしていた。この筑紫の廃寺が、 大和王朝の東遷 である。筑紫大地震の後、天武天皇が恐れをなして、天皇家から庶民に至るまで、現奈良県(大和)へ大引越しをした。倭民族の大移動である
  
その廃寺の時にこの筑紫にあった寺を解体して、新し都(奈良・京都)へ持っていく。この廃寺跡からは、木材は一辺も出土しない。出土されるのは礎石と瓦だけである。つまり。礎石と瓦は重たくて運べなかった。木材のみを運んで、新たに心礎を据えて、瓦を新しく焼いて再建(移築)した。法隆寺もこの廃寺から移築された。有名なお寺であればあるほど移築されたようである。
  

天武天皇の時代にその廃寺の時の薬師寺の話が、吉山旧記の別のところに載せられている。

本当に現奈良市にある薬師寺が久留米の土地から移築された薬師寺であるならば、薬師寺の仏様、薬師三尊像は、吉山旧記の記録によれば、当時の住職が唐の国から持ってきた仏様である。薬師寺のある薬師三尊像は唐の時代の仏像という事になる。という事は、日本でも国宝であるが、中国においても第一級の国宝になる

そのお寺が移される時に当時の薬師寺の住職だった方(親子二人)が抗議の自殺をする。

何故自殺したのか判らなかったが、どうやらお寺を無理やり奪われた為らしい。彼らはその事を忘れない為に「吉山」と姓をわざわざ「薬師寺」という姓に改めた事も残されている。その廃寺における悲劇の内容が、吉山旧記に書かれている。それくらいに吉山旧記に記されている内容は、すごい歴史の一コマである

2018年1月 2日 (火) 古田史学 | 固定リンク



http://kyusyu-kodaisi.sub.jp/qpdf/0607.pdf
 
「吉山旧記」によると唐来の薬師尊像は天智天皇八年(669)に入唐し十年(671)に帰国した安泰和尚がもたらしたもので、白鳳九年(671)には薬師寺に吉山久運の次男竹丸が安泰の弟子・安治として住み込んでいた。同年九月廿三日に安泰和尚は遷化する。

持統二年(688)三月十五日、大和政権は薬師寺の飛鳥移転を命じてくる。これに抗議して吉山久運、長男秀丸は自裁する。失われた九州の薬師寺の名を、せめて家名にとどめることにして安治は還俗し、吉山姓に改めた。



https://tamataregu.or.jp/

玉垂宮について
久留米市大善寺町宮本に鎮座する玉垂宮は、古来、筑後国三潴庄鎮守、高良御廟院大善寺玉垂宮と称し、盛時には衆徒45坊社領3000町を有した朝野の崇敬あつい古社であります。祭神は、玉垂宮(藤大臣=トウダイジン・高良玉垂大菩薩とも称した)八幡大神・住吉大神で創建は古く、凡そ1900年前の創祀と伝えられています。

神宮寺の高法寺(814年、弘仁5年大善寺と改称)は、天武天皇ごろの白鳳元年(672)法相宗の僧、安泰和尚によって開基されました。
このように、大善寺の玉垂宮は長い間、寺院と神社が一体的に祀られた典型的な神仏習合の神社でしたが、明治2年(1869)の廃仏毀釈により大善寺は廃され玉垂宮のみ残り、現在に至っています。しかし往時の大善寺の遺構である鐘楼をはじめ阿弥陀堂(鬼堂)や旧庫裡が現存し、神仏習合時代の面影を色濃く残しています




●松野連(まつのむらじ)系図では

倭の五王のはじまりは、滕(藤大臣=紀武内)



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松野連(まつのむらじ)系図 出典: 倭国北伐考 福永晋三先生

滕・讃・珍・済・興・武・哲
神功天皇・応神・仁徳・履中・反正・充恭・安康・雄略




■倭の五王の時代

『宋書』倭国伝に記された、讃・珍・済・興・武の倭の五王

369年、筑紫国筑後みぬま(三潴)に、滕(藤大臣=紀武内)による紀氏王権やまと王朝が成立(皇都(三潴)みぬま大善寺=現・久留米市)に始まり、継体天皇の現・筑豊=豊国やまと王朝復権の以前まで


●『宋書』倭国伝に記された、倭の五王 讃・珍・済・興・武


●筑紫国筑後みぬまに、滕(藤大臣=紀武内)による紀氏王権やまと王朝成立と七人倭国王

松野連(まつのむらじ)系図では、滕・讃・珍・済・興・武・哲




倭の五王と天皇名をすり合わせた、無意味な一般的な理解は、こうなっている。

讃= 応神 or仁徳 or履中

珍= 仁徳 or反正

済・興・武= 充恭、安康、雄略



筑紫国みぬま水沼のやまと王朝、倭の五王(七王)と同時期の、以下は豊国やまと王朝の天皇の系譜。 

 豊国での神社では、15代 神功

15代 応神 ・・・・・・・・ 16代 応神
(誉田別)

16代 仁徳 ・・・・・・ 以下一代プラス
(大鷦鷯)

17代 履中
(去来穂別)

18代 反正
(瑞歯別)

19代 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)

20代 安康
(穴穂)
(大泊瀬幼武)

21代 雄略



筑紫国紀氏王権やまと王朝の倭の五王(七王)と、同時期369年~400年代に、豊国やまと王朝の神功応神系となった天皇の系譜は、並立してパラレルに存在していたのである


筑紫国筑後みぬま水沼のやまと王朝の最後の倭国王 筑紫の君 哲は、継体天皇に対する磐井の乱として知られる磐井=哲だった。、


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倭国王 哲(磐井)の陵か 岩戸山古墳 
出典: 倭国北伐考 福永晋三先生

岩戸山古墳の別区に裁判所跡。筑紫国筑後の紀氏王権は
400年代後半、すでに律令制を始めていた


筑紫国筑後みぬまのやまと王朝の最後の倭国王 哲は、いったんは神功によって滅ばされた神武以来の豊国やまと王朝を、神功応神系となっていた豊国やまと王朝を、哲を退けた継体天皇において、草那藝の劍は戻り、豊国やまと王朝を復権させた


哲(磐井)の孫の牛慈 降格の夜須評督となり 草那藝の劍を豊国側に返す






今回の文の引用元、文字起こし元、は福永晋三氏の以下の講演動画です。


■倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚) 景行 神功 藤大臣=紀武内宿祢による紀氏王権


https://youtu.be/CP0R9Dp5x00


倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚) 福永晋三先生
1:57:44
Y T
2016/05/04 に公開
倭国(豊国)北伐考
平成28年3月21日、久留米大学
福永晋三先生講演





■「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 吉山旧記 薬師寺 ゆすらちんぎん 藤大臣=紀武内宿祢 神功天皇


https://youtu.be/nlf-roLnVzs


「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三
2:57:02
Natou Takeo
2014/04/28 に公開
神功皇后紀を読む会(再カウント開始20140430)
監修:古川清久





== FIN ==






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