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kenchicjunreiのブログ2nd

Author:kenchicjunrei 日々の生活の関心ごとと建築とか、投資、金融政策、支配層のこと、などについて書いています。 記事の多いカテゴリー: 歴史・日本建国 (26)、核と人工知能 (38)、金融と起こされる事件 (45)、金融経済投資 (44)

プリンス・スカイラインGTがポルシェ904を抜き去りプリンスR380がポルシェ906を破りゴールしたとき、日本人に4バルブDOHC車をドライビングする楽しさと日本車の隠し持ってきた技術を教えてくれた。 



■スカG伝説誕生。式場壮吉のポルシェ904を 生沢徹のプリンス・スカイラインGTが 一周抜く。
1964年第2回日本グランプリ



https://youtu.be/DkA2g8t0yUs


第2回日本グランプリの真実
5:34
谷川公一
2010/12/12 に公開

http://ameblo.jp/hamfatter/entry-1073...
日産プリンス自動車販売株式会社の制作による、ビデオプロダクツであるTHE SKYLINEより、第2回日本グランプリ自動車レース大会について、式場壮吉・生沢徹両氏へインタビューする、杉江博愛(徳大寺有恒)氏




■1966年5月、第3回日本グランプリ、ポルシェ906を破って、プリンスR380優勝。 
スカイラインGTを作っていたプリンス最後のレース

大戦時、ゼロ戦のシェアの2/3を作っていたアジア最大の飛行機メーカー、中島飛行機。戦後解体され、自動車産業に。旧富士産業のち富士重工・スバル。旧富士精密工業の後継、プリンス自動車工業。



https://youtu.be/DEn4hIN2C8Y


第3回日本グランプリ -ラストファイト名車よ永遠なれ
第2回日本グランプリ -「プリンス勝利の記録」
1:11:44
Noelene Blagg
2017/11/21 に公開






https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F

中島飛行機株式会社は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。通称は中島(なかじま)。創業者は中島知久平

エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。



1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって、群馬県新田郡尾島町(現群馬県太田市、中島自身の出生地)に設けられた飛行機研究所が中島飛行機の原点である。のちに飛行機研究所は日本飛行機製作所と改称され、さらに中島飛行機製作所を経て1931年(昭和6年)12月15日に中島飛行機株式会社となった。

1919年(大正8年)2月、中島式四型6号機が完全な飛行に成功、同年4月には陸軍から中島式四型(中島式五型)20機を受注。これは民間メーカーにとって日本初の航空機受注であり、晴れて中島(日本飛行機製作所)は航空機メーカーとして軌道に乗り、以後企業規模を拡大し日本最大の航空機・航空エンジンメーカーとなっていった。また、中島の成功をきっかけとして、三菱重工業・川崎航空機・立川飛行機・日立航空機・愛知航空機といった各航空機メーカー(航空機部門)の誕生が続くこととなる。

中島は陸海軍(日本軍)の軍需をメインに各種の軍用機を開発・生産したが[注釈 1]、特に技師長小山悌をおもに設計主務者として開発され、
陸軍航空部隊の歴代主力戦闘機となった九一式戦闘機[注釈 2]・・四式戦闘機「疾風九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」」[注釈 3]といった著名機で知られ、
また従来の日本軍戦闘機とは異なる欧米志向の意欲作たる二式戦闘機「鍾馗」や、本格的な双発大型機である一〇〇式重爆撃機「呑龍」、このほか試作や計画に終わったものの超大型重爆撃機「富嶽」・キ87 高高度戦闘機・キ201 ジェット戦闘爆撃機「火龍」なども手がけている

当初の中島は陸軍機目線で航空機を開発していた。しかし中島式五型の成功以後は海軍からも受注し海軍機の開発・生産も行うようになり、三式艦上戦闘機・九〇式艦上戦闘機・九五式水上偵察機・九七式一号/三号艦上攻撃機・月光・天山・彩雲など多くの海軍主力機を送り出している。なかでも特殊攻撃機橘花は日本初の国産ジェット機であった


戦闘機
1928年(昭和3年) - 三式艦上戦闘機
1930年(昭和5年) - 九〇式艦上戦闘機
1936年(昭和11年) - 九五式艦上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式水上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式陸上偵察機 / 1943年(昭和18年) 夜間戦闘機「月光」
1943年(昭和18年) - 十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
そのほか、三菱の設計である九六式陸上攻撃機と零戦のライセンス生産も行っており、零戦は設計元の三菱を上回る全体の約2/3を量産した



中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており

●SUBARU (旧・富士重工業)
以下の会社が共同で設立し、後に合併して出来た。
東京富士産業(本社→)
富士工業(中島飛行機太田製作所と武蔵野製作所→)

富士自動車工業(中島飛行機伊勢崎製作所→)
大宮冨士工業(中島飛行機大宮製作所→)
宇都宮車両(中島飛行機宇都宮製作所→)


●中島飛行機浜松製作所→富士精密工業→プリンス自動車工業 日産自動車へ吸収



戦前からの自動車メーカーであったトヨタ自動車や日産自動車でさえも独自開発が難しく、海外メーカーの模倣やライセンス生産で凌いだり、軍需産業の中心だった旧三菱重工業の分社(=三菱自動車工業の前身)ですら技術提携による外国車のノックダウン生産をしていた。その時代において、中島飛行機を前身ないし源流とする富士重工業とプリンス自動車工業の2社のみが技術提携に頼らず自力開発を行う素地を有していた



●航空宇宙・ロケット開発
中島飛行機は終戦直前にはドイツからの技術情報等に基づき、ジェットエンジンやロケットエンジンの独自開発にも着手していた。しかし、これらの資料は終戦時に焼却され一時途絶えた


技術力は富士重工と富士精密工業などと後のプリンスに継承されたが、日本政府は、経営破綻が時間の問題であったプリンスにロケット開発を担わせることに危機感を抱き、トヨタにプリンスを吸収合併させるべく画策した。しかし、トヨタは自動車製造に専念したいという理由(政府のヒモ付きとなることを懸念した)からこの話は破談となり、当時、業界2位であった日産が引き受けることになり、日本の宇宙ロケット技術の途絶という、最悪の事態は回避された。


画像
kikka-1.jpg
中島飛行機 ジェット戦闘機
橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機。日本初の純国産ジェット機である。エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造。





■伝説のレーサー 生沢 徹に聞く 2008

https://youtu.be/uzZGxhOlYwE


伝説のレーサー 生沢 徹に聞く 2008
11:55
StartYourEnginesX
2016/10/26 に公開
HISTORIC AUTOMOBILE FESTIVAL IN JAPAN




== FIN ==




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