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3月10日は東京大空襲の日。東京上空にやってきたB29は大きな化け物のように見え、高射砲の最長到達高度16,000~19,000m以下の、明らかに射程高度内で侵入か?米軍は日本軍に首都防衛する気が初めからなかった、ことを知っていた?
https://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲 より抜粋引用
東京大空襲は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京都区部に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲、アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下、沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって、民間人に大きな被害を与えた。
東京都は、1944年(昭和19年)11月24日以降[1]、106回の空襲を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。
その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲)を指す[2][3]。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた[3]。
ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8,500 mから9,500 mでの昼間爆撃を行っていたが、それを高度1,500 mから3,000 mに変更した。
理由はジェットストリームの影響を受けないこと、エンジンの負荷を軽減することで搭載燃料を節約し、多くの爆弾を積めること、命中精度が向上すること、火災を合流させて密度を上げ、大火災にできることであった。
しかし低空では敵の迎撃機と対空砲による反撃が予想されるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手をB29から降ろして一機当たりの爆弾搭載量を200 kg増やせるようにし、編隊ではなく単機直列の陣形(単縦陣)に変更した。このルメイ立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と言った。ルメイの変更に搭乗員は恐怖したが、日本側の防空体制の不備により結果的にB29の損害は軽微であった
また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだった。
(引用おわり)
【東京大空襲】から71年
— 宗さん@天気予報&情報 (@aQYNBl1uEAri1PV) 2016年3月9日
3月10日未明334機のB29の焼夷弾で10万人が亡くなりました。他にも名古屋、大阪、神戸なども空襲に遇い全国で60万人も亡くなりました。黙祷 pic.twitter.com/1yyKybvKVB
画像

東京上空のB29
出典: 【東京大空襲】から71年 宗さん@天気予報&情報 @aQYNBl1uEAri1PV
(以下の記事を転載はじめ)
(新) 日本の黒い霧
https://blog.goo.ne.jp/adoi/e/c41354769f5742a8bfd068c49de02de3
今日は東京大空襲の日
2019-03-10 16:47:40 / 改ざんの日本史
今日3月10日は東京大空襲の日。この悲惨な体験談はネットでも多く見ることができます。今回はその体験談より以下の部分を
抜粋しました。
昭和20年3月10日の未明、空襲警報が鳴って飛行機が数機やって来たが
すぐ引き返したので安心していた。
そのあと、B29の戦闘爆撃機が空を覆うようにやってきた。
大きな化け物のように見えた。焼夷弾が雨あられのように落ちてきた。
焼夷弾は日本の家屋を焼くように作ってあり、最初から家も人も殺すつもり
だったのではないかと思う。
犠牲者は殆どが民間人です。民間人は戦闘に巻き込んではならないはずなのに。
一夜にして10万人が焼け死んだ。
消火訓練で良くバケツリレーをしていたが、そんなものは全く役に立たない。
引用元:https://miyotya.hatenablog.com/entry/20180802
これ、何かおかしいと思われないでしょうか?
「空を覆うように」、「大きな化け物のよう」ということは、少なくともB29の飛行高度は1000m以下だと思われます。2000m以上なら、密集編隊でも点が散らばっているように見えるはずです。
当時の高射砲の公称スペック上の最長到達高度は16,000~19,000m。果たしてB29の大編隊は玉砕覚悟でみすみす高射砲の射程高度内に侵入してきたのでしょうか?
これを説明する理由は
1)高射砲のスペックがそもそも詐称したものであること
2)日本軍に首都防衛する気が初めからなかった
すると、米国空軍は
1)または2)の事実を初めから知っていた
ことになります。日本軍の張りぼて防衛体制が丸裸だったとも言えますが、私は日米共謀の下、東京空襲計画が初めから計画されていたのではないかと疑っています。これはまた、広島・長崎にも言えることなのです。
すると次のような反論が聞こえそうです。
そんなバカな、日本軍が日本を守らないはずがない!
果たしてそうでしょうか?ならばなぜ、1985年8月12日に起きた日航123便の遭難で、日本国政府は救助を何時間も遅らし乗客乗員を見殺しにしたのでしょうか?大きな目的のためには一部の国民の命などどうでもいい、そういう思想が戦時中から現在にかけて、この国に全くないと言えるのでしょうか?
ある元自衛隊員が言ってました、「本当に恐ろしいのは眼前の敵ではなく、愚かな味方である。後ろから撃たれたら我々はもう何もできないのだよ」と。
疑いは今でも晴れることはありませんが、今はまず、この日失われた命に対して謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。
* * *
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写真1:東京慰霊堂敷地内の句碑
焼けてなお 芽ぐむ力ぞ 青草の民
元歌は「焼けて直ぐ 芽ぐむ力や 棕梠の露」、元東京市長の永田秀次郎の作とされていますが、おそらくそれは違うでしょう。
震災の犠牲者にこんなに呪いの詰まった俳句を捧げるのは、その道の専門家であるとしか考えられません。この句碑により、1923年9月1日に起きた関東大震災も計画震災であった可能性が濃厚となってきました。
キリストの御国にて記す
管理人 日月土
(転載おわり)
== FIN ==