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kenchicjunreiのブログ2nd

Author:kenchicjunrei 日々の生活の関心ごとと建築とか、投資、金融政策、支配層のこと、などについて書いています。 記事の多いカテゴリー: 歴史・日本建国 (26)、核と人工知能 (38)、金融と起こされる事件 (45)、金融経済投資 (44)

日本最初の元号「大化」は、ほんとは、実在したのか?豊国やまと王朝継体天皇が522年日本で最初の元号「善記」を建号し、「大化」より一世紀以上以前に豊国年号を開始し、筑紫国やまと王朝天皇アメノタリシヒコが、591年元号「法興」を建号し、筑紫年号を開始したことは、これもまったく知られていない。 



■日本最初の元号「大化」645年は、ほんとうに元号の始まりなのか?

日本最初の元号「大化」は、ほんとは、実在したのか?

律令制開始の日本建国クライマックスであり、日本最初の元号「大化」645年がそこに生まれた、天皇を中心として律令国家への体制一新、「大化の改新」は、通説日本史ではあたりまえのように奈良の大和王朝のできごとだった

「大化の改新」は今日では、事件としては「乙巳の変(いっしのへん)」といわれ、通説ではそれは「奈良の大和」の天皇家とそれを脅かす蘇我氏一族との抗争だった

というのが、通説の日本史である。



しかしである。「乙巳の変」大化の改新という新機軸は、奈良ではなく、ほんとうは、九州豊国のやまと王朝、九州豊国の天皇家に起こった出来事だった、のである。

中大兄皇子も、大海人皇子も、中臣鎌足も、蘇我入鹿も、皇極天皇も、みんな、ほかではない豊国『豊前・京都』に居た


このことが歴史からほぼ完ぺきに消されて認知外にされている



そして豊国やまと王朝の継体天皇が522年日本で最初の元号「善記」を建号し、「大化」645年より一世紀以上以前に、豊国年号を開始し

筑紫国やまと王朝の天皇アメノタリシヒコが、大化より半世紀以前に、591年元号「法興」を建号し、筑紫年号を開始したことは、これもまったく知られていない




■320年ころ、弱体化した九州豊国やまと王朝に対して、近畿の東鯷国から、ニギハヤヒ系の物部氏勢力の神功が挙兵した


マトタケル倭建命天皇の孫の、忍熊(おしくま)ノ皇子は、入水を選ぶ。草那藝の劍を身に着けて。忍熊ノ皇子が川面に浮かび、草那藝の劍を、神功の家臣で(内縁の)夫の紀武内ノ宿禰が、奪う

神武天皇が創設した邪馬臺國やまと王朝は倭建命天皇の子孫までの系譜は滅び、ここに神功皇后によって豊国邪馬臺王朝は滅亡した。神功皇后自身は豊国邪馬臺王朝の天皇になった

・仲哀から応神まで79年空白=そのときが15代神功天皇= 豊国の神社では15代神功天皇 16代応神天皇・・・


神功皇后軍の豊国筑紫国征伐と 紀氏王権の 筑紫国やまと王朝成立 皇都筑紫国筑後みぬま三潴大善寺(現・久留米市) それに続く倭の五王の時代

倭国王 哲(磐井) 岩戸山古墳 別区に裁判所あと(律令制) 筑紫君 哲=磐井の乱 継体と争って敗れる

・哲(磐井)の孫の牛慈 夜須評督となり 草那藝の劍を豊国側に返す


応神天皇の玄孫の継体天皇、神武が創始した豊国やまと王朝を復権 最後の5年間豊国に 皇宮は、豊国いわれ玉穂宮 稲荷神社 元号制創始 

・欽明天皇558年 年号兄弟 やまと王朝東西に並立


開皇20年 600年筑紫国太宰府の、筑紫国やまと王朝(倭国本朝)の"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコが、豊国やまと王朝(倭国東朝)との、兄弟統治 筑紫年号と豊国年号が並立 太宰府は日本初の大規模条里制首都 

聖徳太子の正体である、筑紫国やまと王朝(倭国本朝)の"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコが、遣隋使 官位十二階 十七条憲法 の大偉業。観世音寺or法興寺⇒ のち奈良に移築して法隆寺



大善寺玉垂宮所蔵 「吉山旧記」の本質

やまと王朝が 天氏王朝(豊国ー神武以来の王朝。神功皇后の侵攻でいったん途絶えるが、神功皇后自身が天皇に。応神天皇と続く、神功応神系譜の王朝に。)と、 紀氏王朝(筑紫国筑後みぬまー久留米・のち太宰府、の王朝)が 並立、パラレルワールドに。


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ゆすらちんりん 三潴(みずま)=水沼みぬまの皇都 
出典: 倭国北伐考 福永晋三先生



●松野連(まつのむらじ)系図では

倭の五王のはじまりは、滕(藤大臣=紀武内)



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松野連(まつのむらじ)系図 
出典: 倭国北伐考 福永晋三先生

滕・讃・珍・済・興・武・哲
神功天皇・応神・仁徳・履中・反正・充恭・安康・雄略




■筑紫国筑後みぬま水沼の、紀氏王権筑紫国やまと王朝

369年、筑紫国筑後みぬまに、滕(藤大臣=紀武内)による紀氏王権やまと王朝成立。と倭の五王(七王)

『宋書』倭国伝に記された、倭の五王 讃・珍・済・興・武

松野連(まつのむらじ)系図では、滕・讃・珍・済・興・武・哲



■神武天皇以来の天氏豊国やまと王朝

筑紫国みぬま水沼のやまと王朝、倭の五王(七王)と同時期の、以下は豊国やまと王朝の天皇の系譜。 

 豊国での神社では、15代 神功天皇なので

15代 応神 ・・・・・・・・ 16代 応神 となり
(誉田別)

16代(17代) 仁徳 ・・・・・・ 以下一代プラス
(大鷦鷯)

17代(18代) 履中
(去来穂別)

18代(19代) 反正
(瑞歯別)

19代(20代) 允恭
(雄朝津間稚子宿禰)

20代(21代) 安康
(穴穂)
(大泊瀬幼武)

21代(22代) 雄略


筑紫国紀氏王権やまと王朝の倭の五王(七王)と、同時期369年~400年代に、豊国やまと王朝の神功応神系となった天皇の系譜は、並立してパラレルに存在していたのである



筑紫国筑後みぬま水沼のやまと王朝の最後の倭国王 筑紫の君 哲は、継体天皇に対する磐井の乱として知られる磐井=哲だった。、

哲(磐井)の孫の牛慈 降格の夜須評督となり 草那藝の劍を豊国側に返す

507年、豊国の樟葉宮(くすばのみや)で即位した、継体天皇において、草那藝の劍は戻り、豊国やまと王朝を復権させた



■わが国に最初の年号(元号)「善記」に始まる豊国年号

継体天皇は、豊国やまと王朝で、522年、わが国に最初の年号(元号)「善記」をもたらし、年号(元号)制(豊国年号)を創始した


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豊国年号 500年代
出典: 「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三


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豊国年号 600年代
出典: 「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三


■開皇20年 600年筑紫国太宰府の、筑紫国やまと王朝(倭国本朝)の"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコが、豊国やまと王朝(倭国東朝)との、兄弟統治。そして年号「法興」を制定(筑紫年号)。筑紫年号と豊国年号が並立。 太宰府は日本初の大規模条里制首都。 遣隋使、官位十二階、十七条憲法、の偉業。観世音寺or法興寺⇒ のち奈良に移築して法隆寺


筑紫国太宰府の、やまと王朝の"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコは、筑紫国やまと王朝(倭国本朝)の年号「法興」を建号。(筑紫年号)


■元号「法興」に始まる筑紫年号


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筑紫年号
出典: 「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三



奈良の大和王朝によって作成された、日本書紀によって、"日出ずる処の天子"=天皇アメノタリシヒコの実在とその事績は、実在しないヒーロー聖徳太子が作り出され、筑紫国やまと王朝の天皇アメノタリシヒコの実在とその事績をそっくり、そこに=架空の聖徳太子に、移し替え閉じ込めることで、天皇アメノタリシヒコの存在とその事績は、隠蔽され抹殺されてしまっている

天皇アメノタリシヒコが建号した元号「法興」に始まる筑紫年号は、いかがわしい奈良地方の大和政権の元号ではなく、九州筑紫のやまと王朝で制定された天皇による年号として実在し、いかがわしい私年号なんかではけっしてない




■645年、中大兄皇子らが、奈良ではなく九州豊国の飛鳥、板蓋宮(いたぶきのみや)大極殿内で、中大兄皇子の母の皇極(のち斉明)天皇の眼前で、蘇我入鹿を討つ。翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷は自害。これを乙巳の変。


豊国年号に「大化」はない。



■講演動画: 「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三先生

https://youtu.be/1nlHYGD-2tk


「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三 20170604 @森のカフェミュージアムnico
3:01:42
崗縣
2017/07/20 に公開



天武天皇679年、筑紫国で大地震



■元号「法興」の考古学的証拠

天武天皇の678年の筑紫大地震は震源が近畿にも移動し、掘っ建て柱工法の近畿の寺院はすべてが倒壊。筑紫国豊国の先進基盤工法の寺院は倒壊せず、その大部分が天武の命によって廃寺し近畿へ解体移築することになった

白村江の戦の敗戦以後、唐の侵攻と、この大地震に恐れた豊国筑紫国やまと王朝は、ついに遷都を決める。建築と律令制と貨幣と地名の、いっさいがっさいの、近畿へのおよそ百年をかけた大引っ越しが始まる。豊国筑紫国で起ったこと、建築、地名を、奈良に移植し、そのうえで豊国筑紫国の記憶、建築、地名を、消し去る、という大事業である


筑紫国やまと王朝の法興寺or観世音寺が奈良に移築され、現在の法隆寺となった、その金堂に保蔵された釈迦三尊像の光背銘に、「法興元丗一年」とある

なお、推古天皇は豊国やまと王朝の天皇。後年に奈良の大和ででっちあげられた、その摂政の聖徳太子は実在しない。解体され移築される法隆寺は九州やまと王朝から引っ越したが、豊国推古天皇の摂政、聖徳太子は引っ越し先の奈良で創作され、
法隆寺金堂釈迦三尊像と光背銘を製作した請願主、架空の聖徳太子が、筑紫国天皇の年号「法興元丗一年」を、光背銘において、時空を越えて、遭遇させた


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F から引用。

法隆寺金堂 釈迦三尊像

「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」
光背裏面の銘文



蓮弁形光背の裏面には造像の由来について記した銘文がある。銘文は14字14行で、四六駢儷体の格調高いものである

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登淨
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟乘斯微福信道知識現在安隠
出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造


(読み下しの例)

法興元丗一年(げんさんじゅういちねん)、歳(ほし)は辛巳に次(やど)る〔西暦621年〕十二月、鬼前太后〔間人皇女〕崩ず。明年正月廿二日、上宮法皇〔太子〕、病に枕して弗悆(ふよ)〔「弗」の次の漢字は「余」の下に「心」〕。干食(かしわで)王后〔膳妃〕、仍(より)て以て労疾、並びて床に著(つ)く。時に王后王子等、諸臣及与(と)、深く愁毒を懷(いだ)き、共に相(あい)発願すらく、「仰ぎて三宝に依り、當(まさ)に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。若し是れ定業(じょうごう)にして以て世に背かば、往きて浄土に登り、早(すみやか)に妙果に昇らんことを」と。二月廿一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。癸未年〔623年〕三月中、願いの如く敬(つつし)みて釈迦尊像并(あわ)せて侠侍(きょうじ)、及び荘厳具を造り竟(おわ)る。斯の微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安隠にして、生を出でて死に入り、三主〔間人皇女、太子、膳妃〕に随(したが)い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣(おもむ)かむことを。司馬鞍首(しばのくらつくりのおびと)止利仏師をして造らしむ。
(〔 〕内は補注。)
読み下しについては、以下のようにさまざまな異説がある。

「十二月、鬼前太妃崩」の「鬼」を日付の意に解釈し、「十二月鬼、前太妃崩」とする[49]。
「弗悆」を次の「干食」につなげて、「食に弗悆(こころよ)からず。王后、」とする[50]。
「當に釈像の、尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、」を「釈像を造りて、尺寸の王身、此の願力を蒙り、」とする[51]。
「遂には彼岸を共にし」を「共に彼岸を遂(と)げ」とする[52]。
以上のように、一部の字句の読み方や解釈に異論もあるが、銘文の大意は以下のとおりである。

西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である


この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。

福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、推古朝の作ではないとした。藪田嘉一郎も1950年の論文で釈迦三尊の光背銘は疑わしいとした[54]。しかし、福山は1961年の論文では釈迦三尊光背銘を指して「飛鳥金石文の首位にあるもの」と評しており、自説を実質的に撤回している[55]。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した[56]。東野治之は、木簡に書かれた文字で「皇」が「王」と同じ意味で使われる例の多いことから、「法皇」表記には問題がないとしている[57]。

藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した





■新元号「令和」を制定したのは誰か?

選ばれた有識者でも、安倍晋三とその内閣でもない。
この国の国体勢力が、天皇を無力化した民主主義を装うために、政体勢力をつかっているだけ

新元号「令和」をもって日本を真に統治するのはどの勢力か?

むろん国体勢力が自らの意味と意図をこめて作った新元号を使ってこの国の領地と時間を支配する

国体勢力は国民からは、光源を見れば、見れないように、見えないことになっている。



https://youtu.be/x-Ey6BRmDJA


新元号「令和」の真相をここだけで語る。(原田武夫の道中辻斬り Vol. 50)
16:10
原田武夫国際戦略情報研究所
2019/04/01 に公開

(※チャンネル登録をどうぞ⇒https://goo.gl/ztvBPU
大好評の弊研究所代表・原田武夫によるフリー・トークでお送りする「道中辻斬り」の第50弾。今回は謎のホワイト・ルームからお送り致します。

いよいよ新元号「令和」が決定・発表されました。その真意・真相を巡って喧しく語られています。誰が、何の理由で、どの様な意図をもってこの「令和」という元号を制定したのでしょうか?そして世上語られている「新元号を巡る噂」は本当なのでしょうか?

そして何よりもマーケット、さらには我が国と世界はこれからどうなっていくのでしょうか?そして私たち日本人は今だからこそ何を知り、何をすべきなのでしょうか?今回も弊研究所代表・原田武夫が直言します。
近未来に向けたイシューについての分析を分かりやすく語りながら自ら「社会活動家」として縦横無尽に動く弊研究所代表・原田武夫が今回も鋭く切り込みます!是非、じっくりとご覧下さい!!我々日本勢の近未来における運命や如何に?
なお本篇において触れております会員制サーヴィス「原田武夫ゲマインシャフト」について詳しくはこちら(→末尾のURL)をクリックして今すぐ御申込下さい!
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日本の元号制度:その歴史的背景
政治・外交 社会 2017.04.27
川島 真
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a05403/

3 原案の選定
(1) 内閣総理大臣の指示により、内閣官房長官、総理府総務長官及び内閣法制局長官による会議において、総理府総務長官により整理された候補名において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。
(2) 全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。また、内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長である者に連絡し、意見を伺う。
4 新元号の決定
閣議において、改元の政令を決定する。

ここにある総理府総務長官のポストは現在存在せず、内閣府の誰が担当するのか不分明だが、今回もこの手続に則って選定されるだろう。帝国憲法の時と異なり、天皇の意思が加えられる場はない




■憲法より上位にいる、日本の国体勢力、根源的な階層は、憲法と民主主義のもとで、日本の政体勢力、律令制官僚を、どのようなコネクション回路で、支配するのか?


原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ
http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/2736b9eea5611c57bcfc5699497a329c
苦悶する安倍外交:一体何が欠けており、「世界の根源的な勢力」は何を不満に感じているのか?

2014-07-27 05:05:42 | 原田武夫「真実を語る」(外交・政治)

(上記記事より引用)


安倍晋三総理大臣は権勢の人のように見えるかもしれないが、全くそうではない。なぜならば一見自由に見えるその行動範囲は、「我が国の根源的な勢力」があらかじめ設定したラインの中に止まらなければならないからであり、逆に言えばそのあらかじめ確定されたラインの中でどこまでの働きを示すのかが我が国の内閣総理大臣の本来職務であるといっても過言ではないのである。

法律といった形で書かれているわけではなく、ましてやマスメディアが決して語ることのない世界であり、すなわち「闇の層」の出来事である


実は当の内閣総理大臣たちも、この「闇の層」を実際に総理の座に就いてから初めて知ることになる


それは我が国の最高裁判所(総理官邸ではない。「最高裁判所」の、とある執務室である)に就任早々に召喚され、とあることが書かれている大量の書類に自筆で署名を求められ、これを粛々と行う時のことである。


その時、我が国の内閣総理大臣はこの「闇の層」で言うところの、我が国の本当の立ち位置、「我が国の根源的な勢力」が1945年の敗戦に際し、いかなる決断を下したのかを初めて知ることになるのである。


(引用おわり)




■元号制が定まった大宝律令、それ以前の、日本最初の元号とされる、大化という元号は実在したのか?


(以下の記事を抜粋転載はじめ)


https://blog.goo.ne.jp/mayanmilk3/e/e1a48d767763b6565cd25f5695c89182
私の授業  最初の元号「大化」

2018-10-13 19:33:45 | 私の授業


最初の元号

 今日は日本の元号制の始まりについて考えてみましょう。前回は大化の改新についてやりましたから、最初の元号が大化であることは、皆さんもうわかっていますね。

そもそも元号というのか、年号というのか、どっちでしょう。「年号というと、西暦を暗記させられたような・・・・」。「うーん、それじゃあ元号かなあ」。実はね、私も本当はよくわからないんですが、古い文献はみな年号って書いてあるんですよ。新しい元号を定めることは、古い文献にはみな『元を建てる』って表現されています。『元』というのは大本のなる物といういみですから、元年を定めるということなんでしょう。だから元号という言葉は、年号の元年のことを指していたのではないかなと思っています。これは私の考えなのですがね。とにかく本来は元号ではなく年号が正しかった

(中略)

 日本の最初の元号は、いわゆる大化の改新の「大化」ということになっています。『日本書紀』の孝徳天皇即位前紀には、孝徳天皇四年六月乙卯(十九日)の日に、「天豊(あめとよ)財(たから)重(いかし)日(ひ)足姫天皇(たらしひめのすめらみこと)(皇極天皇)の四年を改めて大化元年と為(な)す」と記されていて、孝徳天皇の即位と同時に実施されたことになっています


ところが近年はこのことが疑問視されるようになりました。最近は私たちが高校で習ったことに、みなけちが付くんですね。『日本書紀』以外の文献や、発掘されたその頃の木簡類には、「大化」という文字が全く確認されないというのです


年紀を表記する場合はすべて甲子とか丙午とか、みな干支で表記されていて、「大化」という元号が実際に使われていた痕跡が全くありません


確かにそう言われてみればそうなんですよ。そもそもいわゆる「大化の改新の詔」自体が、後年に『日本書紀』編纂の際に大宝令の文によって修飾されていますから、『日本書紀』にそのように記されているからといって、それが事実とは限らないというのです。大化の改新はなかったという学説もあるくらいですから



 確かに国内では使われていなかった可能性は高いのですが、だからと言って単純に、「大化」は最初の元号ではないと決めつけることはできないと思っています

『日本後紀』という歴史書の巻二十の弘仁元年(810)九月十九日の嵯峨天皇による弘仁改元の詔には、「詔(みことのり)して曰(い)はく、飛鳥以前、未だ年号の目あらず。難波の御宇(みよ)(孝徳天皇の代に)、始めて大化の称顕(あら)はる。」と記されていて、「大化」こそが最初の元号であるという認識が、当時は共有されていたことは確かなんです

事実がどうであつたかということと、どのように信じられていたかということは、全く別の問題です



 私が注目しているのは、元号を建てるということには、そもそも対外的な意図があるということなのです。つまり独自の元号を使用することは、中国に従属してその暦や元号を甘んじて使用する国ではないことの宣言でもあるのです

中国の暦や元号を受け容れて中国に従属することを、「正朔を奉ずる」といいます。「正朔」の「正」は年の初め、「朔」は月の初めの意味で、合わせて暦のことなのですが、古代中国では、暦を定めるのは天子でした。天子は領域だけでなく、時間をも支配しているということなのでしょう。

天子が代わると暦が改められましたから、中国の暦を受け容れるということは、宗主国に対して属国であることを自認することだったのです



 遣隋使と共に隋に留学した青年達は、隋の滅亡と唐の勃興を目の当たりに体験し、律令制による国作りを具(つぶさ)に学んでいました。隋に学びに来たはずなのに、その隋が亡んでしまったのですから、それはそれはショックだったでしょうね。でも帰るに帰れない。船の便がありませんから。しかしそのうちに唐が建国され、律令に基づいた国作りが始まると、我々が求めていたのはこれだと、確信したことでしょうね。

そして20~30年間の留学を終えて、大化の改新の前には帰国していました。彼等は唐で見てきた理想的な国作りを日本でも実現させるために、機会を待ち焦がれていたことでしょう。

ですから彼等が中大兄皇子らと結んだことは、実に自然なことでした。かれらは大化の改新前後には中大兄皇子や中臣鎌足らの知恵袋となっていましたから、改新政府は独自の元号というものの政治的意義については、十分に承知していたはずです。元号を建てることについて彼等が指導したことを直接示す史料はありませんが、当然行われたはずです。また彼等は推古朝の遣隋使などの対等な外交姿勢も、自己体験として当然知っていたでしょう。


 実際、大化の改新前後の朝鮮半島をめぐる諸国の対立は、日本にとって極めて緊張したものでした。642年、高句麗と百済の連合軍が新羅に侵攻すると、新羅は唐に支援を請い、独自の元号を廃して唐の元号を用い、唐にならった官制に切り替え、唐の完全な属国となります。独自の元号を建てずに中国の元号を用いるとは、このようなことなのです。660年には唐と新羅の連合軍が、長年日本と友好関係にあった百済を滅ぼします。それに対して日本は、663年に百済再興のために朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。そして長年朝鮮半島の南部に確保していた、鉄資源などの利権を完全に失うこととなります。また唐は644年から三次にわたって高句麗に侵攻し、668年には高句麗を滅ぼしてしまいます。

これらの一連の紛争はほとんど大化の改新後の出来事ですが、十分に予測できることでした。当時の日本の政権としては、朝鮮半島をめぐる利権の確保のために、独自の元号を建てることによって、独立国家であることを宣言する必要がありました。「大化」という元号が建てられたということは、このような広い視野に立って初めてその意味が理解できるのです。

(中略)

 大化の後は「白雉」に改元されましたが、孝徳天皇の崩御後は新元号は建てられず、斉明朝には元号はありませんでした。そして天武天皇十五年の七月二十日、32年ぶりに「朱鳥」という元号が建てられたのですが、1カ月半後の9月9日には天武天皇が崩御し、翌年からは使われなくなってしまいました。こうして元号の使用は中断してしまうのです。


 いずれ近い将来、元号が変わる日が来るでしょう。現在ではコンピューターが総ての事務処理をする時代ですので、元号が変わると、それに対応するためにかつては想像もできなかった問題が発生するのでしょう。それを理由に元号廃止を主張する人たちは、さらに大声で不要論を唱えることでしょう。しかし現在では本家の中国でさえ元号がなく、世界で唯一日本だけで行われている制度です。しかも千数百年続いているのです。

ここまでくるともう歴史的文化財でもあります。ただ不便であるという理由で捨ててしまってよいとは思いません。西暦といっても、実際はキリスト教暦です。BCはイエスが生まれるより前何年かという数え方ですし、ADに至っては、我が救い主の年という意味ですから、キリスト教徒以外の人にとっては、抵抗があるはずです。しかしキリスト暦といわずに西暦と言うため、宗教が隠されているに過ぎません。日本が独立国家の矜持として使い始めた元号を、利便性だけで評価してはなりません。

 みなさんどうですか。今まではただ単に大化という元号を建てたというだけの理解だったと思いますが、もっともっと重要な意味があったことに是非とも気付いて欲しいのです。



追記

先日ある読者の方から以下のようなコメントをいただきました何はともあれ、コメントまで頂きましたことに御礼申し上げます。



 初めて年号をたてる事を建元、それまであった年号を改めることを改元といいます。実は大化が建元されたとは記述されてません。改元されたと記述されてます

大化五子年と刻まれた土器が出土しており、大化元年は西暦695年である可能性があります。

また、日本書紀には継躰建元の記事があり、

続日本紀には大宝建元の記事があります


聖武天皇は僧籍に関する詔において、白鳳や朱雀という年号に言及されています。これらの年号は日本書紀には記述されてません。

本当にこれらはトンデモ説として扱われても良いのでしょうか?



 大化は建元ではなく改元であるとのことですが、皇極天皇の四年を改めて大化元年とするというのですから、皇極朝の年号はないわけで、改元には当たらず、事実上の建元でしょう。

「大化五子年と刻まれた土器」というのは、江戸時代に常陸国で偶然掘り出され、絵に描かれた土器のことだと思いますが、これだけで大化という年号が広く使われていたとするのは、少し無理があると思います。そういう説があることは承知していますが・・・・。

継体朝に善記といいう年号があったという説もありますが、妙に仏教臭が強く、私には信じられません。トンデモ説とまでは言いませんが、高校の授業レベルで採り上げる程のことではないでしょう


(転載おわり)





https://ja.wikipedia.org/wiki/元号一覧_(日本)


元号一覧 
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== FIN ==






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