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OO7「ロシアから愛を込めて」も、ジョン・ルカレの「寒い国から来たスパイ」も、 戦後の名作映画「第3の男」も、米英とソ連の戦争の諜報結束点にいた二重スパイ=キム・フィルビーを主人公とする、実話の話。ボンドの上司MI6長官"M"とは、実在のMI6長官=Stewart Menziesメンジーズ。イアン・フレミング原作「OO7」は真実の世界政治の先取りだった。
(以下の記事を抜粋転載編集はじめ)
副島隆彦の学問道場 重たい掲示板
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:4
[2373]大事なことを書きます。 12月2日の定例会に集まってください。
投稿者:副島隆彦
投稿日:2018-11-24 22:18:50
副島隆彦です。今日は、2018年11月24日です。
まず、カルロス・ゴーン逮捕についてだが、どうも日本政府は、フランス政府(エマニュエル・マクロン政権)との連携で、やったのではないようだ。
フランス政府(マクロン大統領)が、日産と三菱自動車を ルノー(仏の国営企業)の傘下に入れて、フランスのものにしてしまおう、という策に出そうだったので、先制攻撃で、日本政府が、日産と、三菱自動車を取り戻した、ということのようだ。
アメリカ(トランプ政権)に対しては、怖(こわ)くて、何も出来ないが、フランスぐらいには、これぐらいの荒療治を、日本もやるものだな、と、私は、冷ややかに見ている。
だが、あと一歩、その奥を考えると、国家(政府)の連携(れんけい)による、民間資本の大企業の創業者一族が、外国に逃がして管理している、family office ファミリー・オフィスでの、1000億円、2千億円(10億ドル、20億ドル)クラスの資金がある。これらを、政府の統制下に置こうという 各国の官僚たちの秘密会議での、共同の動きもあるだろう。「世界官僚同盟」(world Bureaucratic Union ワールド・ビューロクラティック・ユニオン)という。内密で、世界内務相会議や、世界警察長官会議、世界国税長官会議が開かれている。
これは、「国家資本主義( state capitalism ステイト・キャピタリズム)」だ。 国家(政府)による、民間経済、産業資本への 統制(とうせい)の動きだ。 統制経済(とうせいけいざい。 コントロールド・エコノミー controlled economy )だ 。
(中略)
副島隆彦です。私は、ずっと 「歴史再発掘(れきしさいはっくつ)」(ビジネス社刊) という本を書き上げることに、掛り切りになっていた。はっと気づいたら、1か月が経(た)っていた。なんとか、年内に出版したい。
この本 の第1章は、ハロルド・“キム”・フィルビー Kim Philby
という、イギリスのエリート階級の、そして、MI6(エム・アイ・シッスク)の国家情報部員(インテリジェンス・オフィサー)、簡単に言えば、国家スパイになった、実在の男の話だ。
■キム・フィルビー
キム・フィルビーを、知らずして現代世界の、この100年間の世界政治の動きの真実を、知ることは出来ない。キム・フィルビー(1912-1988)を論じることは、私、副島隆彦にとって、どうしても、避けて通れない、私の人生の重要問題だった。
キム・フィルビーは、22歳の、ケンブリッジ大学の学生の時(1934年6月)から、ソビエトの NKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー、KGB の前身)のスパイ、agent エイジェント に なった男だ。 その生涯の複雑さは、もの凄いものだ。多くの世界的事件や戦争にこの男からの情報が関係している。
私は、この紛(まぎ)れもなく、史上最大のスパイで、英米と、ソビエト・ロシアの二重スパイで有り続けた男の、真実の話を、ベン・マッキンタイアー(イギリスの The Times 紙の 長年の編集幹部)著 の “ A Spy Among Friends , 2014 “ 日本語訳は、「キム・フィルビー 」 (原書は、2014年刊。中央公論社から日本語訳 2015年刊) を、徹底的に読み続け、そして考え続けた。
どうも中央公論社 というのは、世界の上あるいは奥 ( アバーヴ・ザ・ラー above the law 雲の上) の組織に日本から参加している出版社のようだ。
この3年間(2015年の末から)、私は、この本の内容を、ずっと考えている。私にとっては、自分の脳が、すり切れる、と感じるほどの、恐ろしい本である。この本を読むことで、現代史(20世紀史) の100年間の、世界政治のすべての重要なことが、分かった。
イアン・フレミング原作の「OO7」の第2作目の ●「ロシアから愛を込めて」(1963) も、ジョージ・オーウェルの●「カタロニア賛歌」も、ヘミングウェイの ●「誰がために鐘は鳴る」も、
ジョン・ルカレの●「寒い国から来たスパイ」も、 戦後の大作映画 ●「第3の男」(オーソン・ウエルズ、とグレアム・グリーン )も、 全部、ぜーんぶ、キム・フィルビーという恐るべき人物の、この男を主人公とする、実話の話、真実の話だったのだ。
イアン・フレミングも、グレアム・グレアムグリーンは、キム・フィルビーの、戦争中の部下だった英国情報部員である。
英国のスパイ作家になった者たちのほとんどが、キム・フィルビーをまじかで見ていたことで、退役後、作家になっていった。
だから、映画「007(ダブル・オウ・セブン) 」に出てくる、ジェームズ・ボンドの上司の M I 6(エム・アイ・シックス、イギリスの国家情報機関の最高組織 )の長官である" M(エム)" とは、実在の スチュアート・メンジーズ Stewart Menzies (1890-1968) MI6長官であった。
ジェームズ・ボンドの上司の MI6の長官 " M(エム)" とは、実在の スチュアート・メンジーズ
https://youtu.be/ncQ4-NFGIEw
From Russia with Love (007/危機一発-ロシアより愛をこめて)
2:50
lemikeyles
2011/09/20 に公開
1963年 イギリス映画 「007/危機一発(ロシアより愛をこめて)」
from movie "From Russia with Love " 1963 UK
スチュアート・メンジーズ
「M」とは、メンジーズ(ミンギスとも、日本では、訳され続けた)だったのだ。
この男は、WW2(第2次大戦 1939.9-1945.8)の戦争中の6年間、なんと 1500回も、チャーチル首相と会って、ずっと報告している。1500回だ。1日に4回ぐらいだ。何を?
それは、ドイツ国防軍の ウイルヘルム・カナーリス大将(Wilhelm Franz Canaris、1887-1945)、彼が、戦争中のドイツの 参謀本部の 一角を為している、ドイツ軍の 防諜(ぼうちょう)諜報(ちょうほう)活動の、頂点である、アプヴェーア Abwehr ドイツ国家情報部 の長官であった。
ウイルヘルム・カナーリス大将 、ドイツ国防軍防諜局(アップヴェーア)長官
そして、このカナーリス長官が、イギリスのスパイであり、上記の、英MI6のメンジーズ長官に、ドイツ軍の動きを、すべて、逐一、知らせていたのである。
カナーリスは、第一次大戦のときからのUボートの艦長で、秘密工作の情報将校で、マタハリとも恋愛関係にあった男だ。
何としたことだろう。これが真実の現代世界史だ。だから、ヒトラーのナチス・ドイツは、初めから戦争に負ける運命にあった。 国家の中枢の情報長官を、敵に取られていたら、戦争には勝てない。ということは、日本の参謀本部(大本営)の軍事行動の決定で、ドイツ軍に送られたものは、すべて、英、米に、知られていたということだ。
映画「第3の男」 キム・フィルビー
https://youtu.be/PfVtb76KclY
The Third Man - Trailer with Theme (Anton Karas)
3:45
rosen88kavalier
2015/06/20 に公開
https://www.youtube.com/playlist?list...
1949
Joseph Cotten (1905 - 1994)
Alida Valli (1921 - 2006)
Orson Welles (1915 - 1985)
Trevor Howard (1913 - 1988)
映画「第3の男」の真実のモデルである、キム・フィルビーと、同じ、ソビエトに逃れて、生き延びた、他の二重スパイたちのことは、もう、省略する が、
キム・フィルビーの生涯最大の友人、同志だった、ニコラス・エリオット(1916-1994)は、最後まで、MI6の最高幹部として生き延びた。
このニコラス・エリオットの父は、イートン校の校長で、今のエリザベス女王を教育した、ご養育係だ。私たちのこの世界の、裏の裏の、上の上の、奥の奥 の 最高組織の 人々だ。それは、まさしく007の 最近作(2015年作)の、スペクター Spectre だ、としか、私には言いようがない。
2015年作 007「スペクター Spectre」
世界の、裏の裏の、上の上の、奥の奥 の 最高組織の 人々だ
https://youtu.be/9eosfNwMpMs
Spectre - Welcome James Scene (4/10) | Movieclips
2:32
Movieclips
2016/12/16 に公開
https://youtu.be/kEnK0ZdMThc
Spectre - Blowing Up the Block Scene (1/10) | Movieclips
3:27
Movieclips
2016/12/16 に公開
キム・フィルビーの父親、シンジャン・フィルビーは、インド(大英インド帝国)へ派遣の高級行政官だが、真実の顔は、まるで、「アラビアのロレンス」さながらの、アラブ人の原住民の衣装を着た写真があるとおりの、サウジアラビアのサウド家を、あやつったサウド家の中興の祖、イブン・サウドの顧問だ。
もうひとり、ジュージ・アングルトン というアメリカ人がいて、この男が、実質の、米国OSS(オウ・エス・エス 対外情報局。CIAの 前身) の最高人材だったのだが、このアングルトンが、OSSから、キム・フィルビーに、訓練、教育を求めて、ロンドンのMI6にやって来た(1940年12月)。
このアングルトンも、激しく疑われ続けたが、最後まで、ワシントンDCのインテリジェンス・コミューニティで、生き延びた。
各国のスパイ組織、は、その上の、さらに上の方が、互いにつながって連携している。使い捨てにされる、下級の情報部員や、NOC(エヌ・オウ・シー)や現地の情報提供者(インフォーマント) たちは、これでは、たまったものではない。
どんなに、フィルビーが、最後の10年以上(1951年から)、イギリスの新聞や、英議会で、激しく疑われて調査されても、「証拠が出ない」と、彼らは、フィルビーを庇(かば)い続け、エリオットの調査、尋問の最中に、フィルビーは、1964年に、ベイルートから船で脱出して、黒海沿岸のオデッサに、逃げおうせて、ソビエトへの亡命に成功する。そして、死ぬまでモスクワで暮らした。
その前年の、1963年に、「ロシアから愛を込めて」の 「007」の作品が、公開されている。その内容に、私は、今頃になって驚愕(きょうがく)している。あれはすべて真実の世界政治の先取りだったのだ。
あの映画に出た、イタリア女の女優ダニエラ・ビアンキ(、暗号解読機を持って、亡命を希望するロシアの女情報部員、タチアナ・ロマノヴァを演じた) の 美しさを、越えるボンド・ガールは、今に至るも出てこない。と、私が、書いたら、真に映画好き、映画通(つう)の人だけが、私、副島隆彦にひれ伏すだろう。
007ことジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)と、ソビエト情報局の情報員タチアナ・ロマノヴァ(ダニエラ・ビアンキ)
https://youtu.be/OWMHmTdImSE
Matt Monro – From Russia With Love (1963)
2:51
Ив Кaрфaтта
2016/10/15 に公開
私は、3年前、自分が、家で盗難に遭って、悲しくて、エンエンと泣きながらも、私は、ずっと、この「キム・フォルビー」を読んで、徹底的に、その内容を調べ上げた。この世の、巨大な真実とは何か、を。
私、副島隆彦が、ずば抜けた世界政治、世界政治思想(ポリティカル・ソート)の 理解者であり、この日本国では、頂点を突く政治知識人である、と、そろそろ分かっている人たちだけは、私が、今、書いていることの本当の重たさを、分かるだろう。 あとの低能たちは、ほっておく。
私、副島隆彦だけが、この、東アジアの 哀れな国では、世界最高レベルの 政治思想理解を、している。 だから、私に敬意を払う人は、私が、今、書いていることに、本気になりなさい。
そして、今度、年内には、なんとしてでも、出すこの「歴史再発掘」という本の 第2章は、「外相(がいしょう)松岡洋右(まつおかようすけ)論」だ。
松岡洋右(まつおかようすけ)は、当時、日本人の頭脳としては、世界のトップに入っていた。
この松岡洋右を、もの凄く信頼して、心底、信用して、WW2の直前まで、5年間、外相にして、自分の耳、口 のように使ったのは、昭和天皇 (裕仁、ヒロヒト)である。
それと、近衛文麿(このえふみまろ)首相である。 近衛文麿は、藤原(ふじわら)摂関家(せっかんけ)の、筆頭である 近衛家(このえ)の当主で、だから、「氏の長者(うじのちょうじゃ)」である。
だから、昭和天皇と、近衛文麿と、松岡洋右 の3人が、大きく、まんまと騙(だま)されて、策略に嵌(は)められて、引っ掛かったときに、日本国は戦争に突入させられた。
英、米の 最高頭脳、最高 秘密結社 の人々は、ドイツと、イタリアと、日本を、枢軸国(すうじくこく。The Axis ジ・アクシス) という3国軍事同盟の ワル者、悪人(あくにん)の国に仕立てあげた。そして計画通りに戦争に突入させた。
松岡が、三国同盟( 三国協商とも言った。トライ・アンタント)を作ったのだ。ただし、ドイツのリッベントロップ外相(この男もスパイだった)と協議した上での策だ。松岡は、三国軍事同盟が出来た(この時の駐ドイツ大使、大島浩は怪しい。東郷重徳は立派な外交官だ)、そのあと、イタリアに行きムッソリーニ会い、感激された。その足で、ドイツにヒトラーを訪ねて、ここでも大歓迎され、そのあと、そのまま、ただちにソビエトに向かって、スターリンに、会いに行った。そして、それこそ、抱きかかえられるように大事にされた。
松岡は、「アジアは、日本に任せてほしい。アジア一帯の イギリスの植民地は、日本が解放する(イギリスを撃滅する)」と、いうことで、彼ら独裁者たちすべてを、大(だい)感激させたのだ。
これが、日、独、伊、の次に、ロシア(ソビエト)までを引き込んだ、「松岡の4国同盟案(戦略)」だ。
これを、やられたら、英、米は、もう、負けである。ユーラシア大陸を、すべて、取られてしまう。 アメリカを封じ込めて動けなくさせておいて、イギリスさえ撃滅、敗北させれば、と、日、独、伊、ロシアは、自分たちの勝ちだ、と考えた。パリは、1940年の6月には、もう陥落していた。 ”花のパリ”、が、ドイツ軍のブリッツクリーグ(電撃作戦)で、占領されるようでは、ドイツの勝ちだな、
と、 昭和天皇以下、日本の指導者たちは、このとき、頭のてっぺんから、思い込んだ。これが、甘かった。 このわずか、3カ月あとの1940年9月に、日独伊の3国軍事同盟を締結(調印)している。
松岡が、ムソリーニ、ヒトラー、スターリンに、続けざまに、会いに行ったのは、翌年の1941年4月である。
そして、スターリンと「日ソ中立(ちゅうりつ)条約」(互いに戦争をしない、不可侵の条約)を4月13日に結んだ。それから、松岡は、モスクワ駅まで、スターリンに見送られながら、シベリア鉄道で、ハルピンまで来て、そして、そこから、飛行機で立川の飛行場(立飛。たちひ。陸軍航空隊の基地。今は、米軍の横田基地 )まで帰ってきた(4月22日帰国)。近衛首相が出迎えた。
ところが、その2カ月後。何と言うことか、独ソ戦(どくそせん)が、突如、始まった。
ドイツ軍が、6月22日に、「バルバロッサ作戦」で、ポーランド国境から、ソビエト領内に、突然、侵攻したのだ。スターリンは、何も準備をしていなかった。慌てふためいた。この独ソ戦の、突如の、開始に、松岡も、青ざめた。
それで、急いで近衛に合いゆき、そのあと、すぐに宮中に駆け込んで、陛下に謁見した。そして、昭和天皇に、松岡は、「 御上(おかみ)。ソビエトを直ちに、攻めましょう。それしかありません。アメリカと開戦は出来ません。してはなりません 」と、必死の奏上(そうじょう)をした。
この時、昭和天皇が、烈火のごとく怒って、「松岡。何と言うことを言うか。お前が、つい2カ月まえに、ソビエトのスターリンと、中立条約を結んできたばかりではないか」と。
この時、日本の最高指導者の中に、分裂が生まれた。近衛とも分裂した。近衛が松岡を嫌いだした。松岡は、「自分は、絶対に外相を辞めない。私が、何とかしなければいけないのだ」と分かっていた。 だが、もう、御前会議(ごぜんかいぎ)やら、帝国国策遂行要項(ていこくこくさくすいこうようこう)やらで、着々と、対(たい)英米 の戦争の準備を、日本軍がしていた。
日本の軍人や、外務省の中に、アメリカとつながっている、おかしな奇妙な連中がいた。
”海軍3提督””の筆頭、米内光政(よないみつまさ)海軍大臣、 重光葵(しげみつまもる)前外相たちだ。陸軍と海軍の情報部(特務機関)を握っていた、服部卓四郎(はっとりたくしろう)と河辺虎四郎(かわべとらしろう)たちも、アメリカのスパイだ。
だから、彼らの下にいた者たちが、アメリカの手先どもだ。戦争前から、そのように育てられていた。辻政信(つじまさのぶ)や、作戦部長の・・・やら、 戦後は、伊藤忠の会長になった瀬島龍三(せじまりゅうぞう)たちだ。 日本が、戦争に負けたはずだ。 政府の中枢に、敵のスパイたちがいたのだから。
日本の敗戦は、初めから、このように、情報戦とスパイ戦争 によって、決着が付いていた。天皇と近衛と松岡の負け、である。 松岡の進言通り、あのときロシアを攻めていたら、日本は、いまのような、ワル者の国にされることはなかっただろう。
松岡だけが、この時、「ああ、オレは、嵌(は)められた。大失策だ。何と言うことか。あいつらの策にまんまと、のせられた」と気づいた。英、米を、大きく、手玉にとって騙(だま)そうという大きな世界ゲームを、松岡は仕掛けたのだ。そして、まんまと騙し返された。
英、米の方が、一枚、上手(うわて)だった。 だが、もう、この時には遅かった。松岡のその機転 の、天皇への奏上は、却下された。このあと、重臣(じゅうしん)、閣僚たちから、松岡は、ヒドく嫌われるようになった。天皇に嫌われたのだから。
あのとき、昭和天皇が、あと、一踏み、踏み込んで、「そうか、松岡。そういうことか。それなら、私たちも奇策に転じよう」と決断するだけの、能力が無かった。関東軍特殊演習(関特演、かんとくえん。を70万人の兵力を、このあと、満州でやって、ロシアに示威したのだから。
このことを、昭和天皇は、、ずっと、その後の、人生で後悔し、悔やみ続けだだろう。
この時から、昭和天皇は、敗戦したあと、日本国の元首(げんしゅ。ソブリン)として、日本国憲法という、座敷牢(ざしきろう)に、自ら入って、ひたすら、日本国の安全を祈る、祭祀体(さいしたい)になった。
「日本は、何があっても、世界を敵に回してはいけない。危ないことはするな」と、周囲に、そして、自分の 子、孫たちに、厳しく戒め続けた。 それが、今の天皇夫妻に、そして、次の天皇夫妻に、そして、その子供の女帝になるべき人(愛子さま)にも、受け継がれている。
こうして、すべては、初めの第1章の キム・フィルビー の 話につながる。
私、副島隆彦 が、今、書くことを、うーんとうめき声を上げながら、読む人たちへ。それだけの能力がある人たちへ。これが、大きな、現代史の 真実だ。 私の、今度出す、本を、読みなさい。
私が、今、書いたこと以外の、くだらない、日本国内の、政治評論や、戦争歴史ものを、この73年間 書き続け、載せ続けた、 文藝春秋 や、新潮社 や、中央公論 と、いうのは、全部、アメリカと、世界支配の上の上に、いいように使われた人たちだ。
来週、12月2日(日)に、開かれる 私たち学問道場の、定例会に、来れる人は来なさい。お茶の水の 連合(れんごう)会館です。昼ぐらいからだ。この、キム・フィルビーの本の、話は、あまり出来ないが、私が、大事なことを話します。
(以降省略)
(抜粋転載おわり)
== FIN ==