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万葉集から読む「令和」が持つ本当の意味。730年天平2年正月に、太宰府大伴旅人邸に集った筑紫歌壇32人によって詠まれた万葉集梅花歌、その歴史背景。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集である[1]。万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[2]。全20巻4500首以上の和歌が収められており、3つのジャンルに分かれる。「雑歌(ぞうか)」宴や旅行での歌、「相聞歌(そうもんか)」男女の恋の歌、「挽歌(ばんか)」人の死に関する歌[3]。
天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][4][5][注釈 1]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年頃にかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。原本は存在せず、現存する最古の写本は11世紀後半ごろの桂本万葉集(巻4の一部のみ)[7]、完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集が最も古い。
和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日本文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重要な史料である。
日本の元号「令和」は、この万葉集の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」の一節を典拠とし、記録が明確なものとしては日本史上初めて元号の出典が漢籍でなく日本の古典となった[8]。
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730年天平2年正月に、太宰府大伴旅人邸での「梅花の宴」に集った筑紫歌壇32人によって詠まれた。万葉集の梅花の歌。 大伴旅人 筑前のかみ=山上憶良 山部赤人。
元号『令和』が引用された文献元とされる「万葉集巻五の梅花歌三十二首并せて序」。
この万葉集梅花歌は、730年太宰府で、生まれた。 その背景。
太宰府 そして 大伴旅人 山上憶良
万葉集梅花歌が太宰府で生まれた、その背景。
豊国(豊前)と、筑紫国(太宰府)に、神武が開いた、やまと王朝が存在した。
神武、卑弥呼、ヤマトタケル、神功、継体、の系譜の、600年代中葉、倭国東朝(豊国)やまと王朝 天智天皇 母は皇極
聖徳太子の正体である日出ずる処の天子=アメのタリシヒコ阿毎多利思比孤系譜の、600年代中葉、倭国本朝(筑紫国太宰府)やまと王朝 筑紫の君さちやま=天武天皇 母は斉明
倭国本朝は百済の再興に肩入れしていた。唐・新羅と倭国やまと朝が戦争になることは目に見えていた。
663年白村江の戦い
天智の遠賀軍600艘、唐との密約で、戦いに参加せず600艘遠賀に引き返す。
天武の三笠軍400艘全滅。
唐軍の捕虜となった筑紫の君さちやま=天武は、一年後唐から帰るも、太宰府に戻らず、天智の東朝(豊国)に軟禁状態。彦山の吉野川吉野宮(現・山国町)に籠る。天武が天智を倒す壬申の乱へ。
白村江の戦いの7年前に 太宰府に 南北の水城など 羅城が作られる。 ブラタモリ新春sp 太宰府天満宮 参照
太宰府は条里(条防)制の原・平城京が建てられた都。羅城で囲んだ原・平城京に強化される。
画像

太宰府。条里制の原・平城京、
出典: 「聖徳太子の正体―蘇我氏は『豊前京都』にいた」 福永晋三 20170603
天武の死後、持統のときに豊国筑紫のやまと王朝は、近畿の奈良地方に遷都を開始。太宰府平城京を模した羅城がない奈良平城京が太宰府規模で現れ始めるのは750年あたり。
白村江の戦いのあと唐から戻っても、太宰府に戻れなかった天武。壬申の乱のあと天智を死に追いやっても太宰府に戻らず、天智の豊国と太宰府筑紫国を統一した豊国やまと朝を継承した天武は、建国の歴史書を作るために、天武朝にとって都合が悪い天智朝の謹書歴史書を禁書にした。
山沢に亡命する豊国 かま=現・嘉麻市稲築 の民。
都合が悪い天智朝の謹書歴史書を禁書にした天武朝。
730年以前、時の朝廷に追われて、山(彦山)沢に亡命する豊国 かま=現・嘉麻市稲築 の民に、朝廷に仕えた山上憶良が朝廷の言葉をもって投降、自首をうながす。 「天智朝の謹書歴史書を隠し持って、100日以内に山から投降してこなければ死刑にするぞ」
天智朝の謹書歴史書を手に入れた天武朝は、日本書紀編纂を命じ、720年に最初のものが完成した。
日本書紀で削除され隠蔽されたのは、
実際は、天智朝の歴史書ではなく。天武の出自の筑紫国太宰府の日出ずる処の天子=アメのタリシヒコ阿毎多利思比孤天皇(遣隋使を出し、冠位十二階を発布し、十七条憲法を定めた、あのお方だ)の歴史書だった。
663年白村江の戦いで、天武の三笠軍400艘全滅。唐軍の捕虜となった筑紫の君さちやま=天武は、一年後唐から帰るも、太宰府に戻らず、天智の東朝(豊国)に軟禁状態。ここも隠蔽し。
壬申の乱672年のあと、天智を死に追いやっても太宰府に戻らず、豊国に飛鳥浄御原宮(赤村・大原貴船神社)を建て、天智の豊国と太宰府筑紫国を統一し、統一やまと朝として即位した。
白村江の戦い以降壬申の乱で統一やまと王朝になっても、天武はもどらず、730年になっても皇都太宰府にあるじは、かくも長き不在だった。文武は豊国にいた。
皇都太宰府は政治体制、官僚制、貨幣、地名、建築、言語、部族などのいっさいを奈良地方に一世紀をかけて、オリジナルがどこかの痕跡を抹殺しながら、移設し遷都するのを始めていた。
日本書紀そして続日本紀が削除し隠蔽した最大のものが、皇都太宰府は、その政治体制、官僚制、貨幣、地名、建築、言語など、いっさいを奈良地方に、一世紀をかけて移設し遷都してきた、ということが事実であるということ。
その事実を隠しまわり、やまと王朝は奈良で起った、あるいは九州倭国やまと王朝を滅ぼして近畿に新たにやまと王朝が誕生した、と思わせて来た。
事実は、700年代に生まれた奈良のやまと王朝は、=九州天武朝であり、豊国筑紫国の天武ー持統朝廷の奈良への遷都開始によって徐々に田舎を新皇都にする、九州天武朝である。にもかかわらず日本書紀は、やまと王朝は奈良で起った、あるいはもしかして九州倭国やまと王朝を滅ぼして近畿に新たにやまと王朝が誕生した、と思わせて来た。
奈良大和朝は、九州、豊国筑紫の地名と寺院の移設、移築を進めながら、偽の時間をワープしながら、虚在の偽の実在を装い始める。
オリジナルの実在(太宰府やまと王朝)が、かくも長き不在となりはじめ、非存在のものがオリジナルの実在を上書きし虚在の偽の実在(奈良大和朝)を装い始める。そのようなときに太宰府で「落梅の歌」が生まれた。
以上が、太宰府大伴旅人邸での「梅花の宴」と万葉集梅花歌の、元号『令和』の出典とされるには、いたくリアルすぎる時代背景。
■730年天平2年正月十三日(現代歴で二月初旬)に、太宰府大伴旅人邸での「梅花の宴」に集った筑紫歌壇32人によって詠まれた、万葉集巻五に入っている梅花歌32首。
序文も名文。
まだつぼみなのに梅の開花を見る。
まだつぼみなのに、落梅を歌う。不在や非在を歌う。
リアルよりも観念を歌う、古今和歌集を先取りした、すでに斬新さが筑紫歌壇万葉。
・落梅
・宴梅望郷
・迎春
823 大野城
824 うぐいすがなく 梅にくるのはメジロ
825
830 よろずよ
■万葉集から読む「令和」が持つ本当の意味① 福永晋三
730年天平2年正月十三日(現代歴で二月初旬)に、太宰府大伴旅人邸での「梅花の宴」に集った筑紫歌壇32人によって詠まれた、万葉集巻五に入っている梅花歌32首の心的背景。
https://youtu.be/2nEuQ8juQPg
万葉集から読む「令和」が持つ本当の意味① 福永晋三
47:29
北九州古代史研究会
2019/07/25 に公開
続きはこちらから。
「令和と万葉集②」
https://youtu.be/I2tZaR3uwRs
「令和と万葉集③」
https://youtu.be/C1l42I2qLV0
北九州古代史研究会は、記紀万葉研究家として活躍中の福永晋三先生をお呼びして、古代史に関する講義を行っていただいています。今回は万葉集と、日本書記から真実を読み解きます。
福永先生の動画は多くありますが、万葉集について語る動画はレアじゃないかなと思います。
万葉集巻五「梅花の章」を読みながら閲覧していただくと、より深い理解が得られますのでオススメです。
== FIN ==