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- CATEGORY歴史・日本建国
やまと王朝は神武により九州豊国にはじまり、590年から710年にいたっても筑紫の太宰府が日本の首都(皇都)だった。にもかかわらず、大和王朝は初めからもとから奈良にあった、それがありつづけている、歴史詐欺が成立する、からくり。
九州大和王朝論を最初に言い出したのは今は死去された古田武彦氏ですが、
古田武彦: ja.wikipedia.org/古田武彦
その古田武彦氏の許に初期には居た福永 晋三氏が、その九州ヤマト王朝を、豊国(現・福岡県田川郡香春町)に鎮座する香春三山のふもとにあったと、一段と明確に比定しました。
「香春は国のまほろば」 福永晋三 20161103
https://youtu.be/VzNptRE2QaA
そして、この「ヤマト王朝=香春町の香春三山のふもと」を、『元祖・大和』と言っているのは、次のように、他にいます。
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近畿の大和にたいして、元祖・大和がこっち、ということですが、後で引用転載するページ http://www.geocities.jp/ojyaru_24/takeru21.html をここで要約しておきます。
●豊国(=筑豊)に何故、現在の近畿地方と見まがうような地名がこんなに多く残っているのか。
近畿地方の地名を一式まとめてこの場所(豊国)に移植したのか。否、そんなことが出来るはずがないしする理由もない。地名を管理するのは国であるから地方で独自に出来るはずがない。よって、元々ついていた地名である。
●豊国(現・筑豊、田川郡香春町)に、仮にこの場所に倭国の中心があったと仮定した場合、何故伝承やその遺跡が残っていないのか。なぜ聞き起こしや発掘がなされない、のか。聞き起こしや発掘がなされない、政治的圧力や隠蔽の歴史的からくりが、作用してきたのか。
考えられることの一つ目は、
新たに新大和王朝を作り出す、のではなく、いままで存在したやまと王朝を、別の地方にそっくりそのまま移すということ。
■建物や施設、制度、技術を移築・移設した、そっくりそのまま、の遷都。
700年代、およそ100年かけて、豊国筑紫国の皇居、寺院をそっくりそのまま、奈良に移す遷都を実行。
730年天平2年正月に太宰府大伴旅人邸に集った筑紫歌壇32人によって詠まれた万葉集梅花歌が誕生した歴史イベントには、確かに皇都太宰府はまだ現存していた。
画像

条里制の皇都太宰府
しかし、だれかがきまぐれに770年にタイムスリップしたら、豊国と筑紫国太宰府の皇居、寺院はそっくりそのまま、消えてしまっている。そして、奈良に条里制の太宰府が忽然と出現している。
オリジナル大和王朝は忽然と消滅し、オリジナルそっくりそのままのフェイクの大和王朝が忽然と、奈良に出現した。
古事記日本書紀で宮崎から近畿に東征したと言われる偽神武東征のむかしから、大和王朝は元から奈良にあった、という歴史設定詐欺が、ここに可能となった。。
筑紫の倭国やまと朝(具体的には白村江の戦いと壬申の乱と筑紫大地震を経て、天武天皇)が遷都を決意し、その後の天武系譜朝廷が実行に移すとき、
宝物や建物やお墓は、天武朝後継の奈良大和朝廷にすべて献納・移築されてしまった。つまり完璧に移し替えた。
壬申の乱で筑紫太宰府やまと本朝の天武天皇によって豊国やまと東朝の天智天皇は倒され、天智朝だった豊国の民は、体制が変わったことに反発し天武朝が及ばない彦山に亡命するものがいた。天武朝は天智朝の歴史書を隠し持って亡命する豊国の民を弾圧し、天智朝の歴史書を焚書坑儒した。
仏教による鎮護国家を作ろうとする時代に反して、700年代、北九州には強制廃寺=解体移築が大規模におこなわれた。
法隆寺は西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは一連のものとして移築されたのではないか。
廃寺移築には、吉野宮(吉野ヶ里からの移築)、伊勢神宮、薬師寺、長谷寺、東大寺、三十三間堂、などなど。
しかもそのとき移設や移築の日付年代を――(法隆寺、飛鳥、斑鳩のように)、600年代百年はずっと皇都は太宰府であったが、にも拘わらず、600年代はじめ、法隆寺、飛鳥、斑鳩は、近畿のそこにあったと、最大百年はごまかすことさえやってしまう。つまり年代・時の詐称。
ふたつ目は
■鋳潰鋳造。武器貴金属類はすべて鋳潰されて大仏などに変えられた、
三つにはせめて残ったものは
■「言わない・伝えない」。という方法で残そうとした、
四つ目には
■地名はコピー、されて奈良近畿に移動した。飛鳥 難波 伊勢 尾張 摂津など無尽蔵にある。
たとえば日本書紀の神武東征にある吉野、熊野という地名。これらはもとは豊国にあった地名が近畿に移動して定着し、知名度が巨大化し、後代の日本人は、神武東征とは九州の田舎から遠征して近畿にヤマト王朝を作ったはなしだと、吉野、熊野という地名から完全にそう思い込まされてしまう。たとえば日本書紀が豊国の地名をそのままもちいて豊国にあった天皇家の事績を、豊国に起きたこととして書かれたものであった、としても。
その結果長い年月の間に倭国やまと王朝がこの地にあったということさえ解らなくなってしまった、ということではないかと推理される。
なにかが仮に発見されてしまった場合に、例えば東京の国立博物館や奈良の正倉院に収蔵されてしまい地元には何も残らないということが千数百年以上も続けば、なにも「言わない・伝えない」という方法が最も賢明な方法となる。
もしもどうしても伝えたい場合には暗号で残しておくという方法もあるので、それらの方法も使われていたかも知れない。
●ある地方の地名群が別の地方の地名群とそっくりである現象は安本美典氏の筑後平野の地名に関する有名な例にも報告されている。
●著者はこれにさらに詳細な考察を加えて上の例の田川盆地と近畿の奈良盆地の二つの地域は地名だけでなく地勢もそっくりであるということを発見した。
どちらの地域も大和という盆地と一山越せば難波という港を持つということである。
ある二つの地域が地名だけでなく地勢もそっくりであるという現象を地名と地勢がペアーで移動したという推定から仮に●「国名地名移動法則」と名付けた。
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http://www.geocities.jp/ojyaru_24/takeru21.html
日本武尊Ⅱ 日本武尊が一つ松を植えた尾津とは
上記記事より
(著者は、通説どおり、ヤマトタケルは、景行天皇の子、としていて、ともに香春三山のふもとに実在して、ともに、熊襲退治をした、としています。
景行は熊本菊池地方の狗奴国から豊国の香春のヤマト国王朝を倒しに来た、ヤマトタケルがそれに立ち向かってヤマト国王朝を防衛した、とはせず、また景行が退治した熊襲とは香春のヤマト国の民であった、としていませんが。)
日本建国の古代史に、忽然と九州に出現したかのような、景行天皇とヤマトタケル。ふたりはどこが住まいだったのか。けっして近畿から、出向してきたわけではない。
= 抜粋転載はじめ =
日本武尊Ⅱ
●日本武尊が一つ松を植えた尾津とは
プロローグ
前稿の「日本武尊は実在した」で、日本武尊が東国征伐へ出発する時に植えた「一つ松」は、菅原道真が歌に詠んだ、「一木の松」の、福岡県「豊国」の、「金田町神崎」にあった、と推理した。
同じ日本武尊が、松を植えた伝承が、遠賀川のすぐ下流の、「筑紫」の鞍手の「植木町神崎」にも残っており、記紀の中では、「尾津」すなわち「金田町神崎」を出発した後、「尾張」の「鞍手・剣山の麓の植木」にも立ち寄ったことになっているから、「豊国」の尾津と「筑紫」の尾張の2箇所で、「一木の松」を植えたとも考えられる。
また、「金田町神崎」とは柿本人麻呂の歌から「志賀の浦」とも呼ばれ「大津の宮」があったと推理された。本稿ではこの「金田町神崎」についてさらに考察する。
第一話 金田町神崎の尾津
金田町神崎は「尾津」「大津」「神崎」「韓崎」「辛崎」「志賀の浦」などと呼ばれたようである。(前稿「日本武尊は実在した」参照)
この日本武尊が東国征伐へ出発した「尾津」はまた日本書紀に日本武尊の叔母のヤマト姫の伊勢神宮(古事記では伊勢大御神宮)があったと次のように記述されている。
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資料1 日本書紀
景行天皇治世40年冬10月2日、日本武尊は出陣した。7日、寄り道をして伊勢神宮を参拝し、倭媛(やまとひめ)命に別れの言葉をかけた。・・中略・・
日本武尊はその時、始めて病気になった。それでも、なんとか起きあがり尾張に帰った。しかし宮簀媛の所には帰らず伊勢に移って尾津に入った。
以前、日本武尊が東国に向かう時に尾津浜で食事をしたとき、一つ剣を外して松の根に置いたまま忘れていった。しかし、その剣はそのままそこにあり、それを見て歌った。
「尾張に 直に向へる 一つ松あはれ 一つ松 人にありせば 衣着せましを 太刀佩けましを」
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資料2 古事記
そこで、命令を受けて赴く時、伊勢大御神宮に参上し、神の神殿を拝んで、その姨〔をば〕の倭比賣〔ヤマトヒメ〕命に、・・・と申し上げ、悲しみ泣いて赴こうとすると、倭比賣命は草那藝剣を授け、・・・。
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資料1には「伊勢に移って尾津に入った」とあるから、尾津=金田町神崎の近くに古伊勢神宮があったことになる。資料2では伊勢大御神宮になっている。この時代には今現在の三重県の伊勢神宮は創建されておらず、名前が異なるから別のお社である。
ところで大芝英雄氏の著書「豊前王朝」の中に金田町神崎に神武天皇のカシハラ宮がありその西に古伊勢神宮があったと書かれていることを発見した。
ということは、上の考察結果と一致する事になる。まったく別々の独自の方法で研究した結果が一致するとはなんということであろうか。偶然と言うことはあまり考えられない。
大芝氏は私見からと前置きして畝尾山を金田町神崎と頴田町鹿毛馬の間にある「日王山」に比定し、その東南にあることから「かしはら宮」を金田町神崎に比定している。そしてその西に伊勢大御神宮があったことから神宮を田川西盆地の伊登に比定している。
大芝氏の説は私見であるし根拠が若干薄いと思われるのでにわかには信じがたいが、著者は前稿で根拠を提示した上で尾津とは金田町神崎であるとレポートした。そして上の資料1のように記紀にはその尾津の近くに古伊勢神宮があったと書かれている。
著者はホームページ「古代史の謎を解く旅」で畝尾山を「日王山」連山に比定した。理由はこの畝尾山の由来の「畝」とは地図をよく見ると筑豊平野は「田」と「尾」のつく地名の集積地であり、その真ん中に「田」の中を「田んぼの畝」の山が縦断しているように見えるからである。畝尾の尾とは山系が龍のうねったような形をしておりその尾にあたることに由来すると思われる。ともあれ、結果的に畝尾山が大芝氏の私見の畝尾山と一致した。
第二話 九州の大和
ここで本当に田川盆地の辺りまで海の水が入り込んでいたのかどうか、津や浦や崎と言う地名から確かめてみよう。
津や浦や崎と言う地名が残っていればその辺りまで海の水が入り込んで、船が着いた可能性があるということである。
第1図をごらんにいただきたい。確かに金田町神崎付近は神崎、山崎、長浦という地名があり、鹿毛馬神護石城を挟んで西側には奈良津、新山崎などがある。この近くに全国的にも珍しい鮭神社という神社があり古代この辺りまで鮭が遡上していたと伝えられている。したがってこの辺りまで海水が浸入し港があったと思われる。
またここで注目したいことは尾津と想定した神埼付近に、「稗田」「敷島」「奈良」「春日」「弓削田」「白鳥」「一本松」「勾金」「香春=カシハラ」「大阪」「河内」といったいわゆる関西地名がずらりと並んでいることである。
また「宮川」「川宮」「宮床」といった「宮」のつく地名が点在している。
第1図 (※リンク切れ)
何故、現在の近畿地方と見まがうような地名がこんなに多く残っているのか。
近畿地方の地名を一式まとめてこの場所に移植したのか。否、そんなことが出来るはずがないしする理由もない。地名を管理するのは国であるから地方で独自に出来るはずがない。
よって、元々ついていた地名である。
仮に後世この場所に倭国の中心があったと解った場合、その証拠品が沢山残っていたことになる。大和朝廷は倭国邪馬臺国の痕跡を全て消し去ろうとしていたのではなかったのか。
このように元の地名を変えさせずそのまま残して、邪馬臺国の痕跡を容認したということは大和朝廷には故郷の名前と共に正しい歴史を残しておこうという意思があったようにも見受けられる。
では仮にこの場所に倭国の中心があったと仮定した場合、何故伝承やその遺跡が残っていないのか。考えられることの一つ目は、旧倭国が解体した時に宝物や建物やお墓は新大和朝廷にすべて没収・献納・移築されてしまった(北九州には廃寺が多い)、ふたつ目は武器貴金属類はすべて鋳潰されて大仏に変えられた、三つにはせめて残ったものは「言わない・伝えない」という方法で残そうとした、四つ目には地名はコピーされて移動した、その結果長い年月の間に倭国がこの地にあったということさえ解らなくなってしまった、ということではないかと推理される。
なにかが仮に発見されてしまった場合に、例えば東京の国立博物館や奈良の正倉院に収蔵されてしまい地元には何も残らないということが千数百年以上も続けばなにも「言わない・伝えない」という方法が最も賢明な方法となろう。もしもどうしても伝えたい場合には暗号で残しておくという方法もあるのでそれらの方法も使われていたかも知れない。
よって「なにも言わない・伝えない、しかし暗号で残す」という方法で残されているものを探していけばなにか面白いものが見つかるのではないか。
第三話 国名地名の移動
先ほどの例のように、ある地方の地名群が別の地方の地名群とそっくりである現象は安本美典氏の筑後平野の地名に関する有名な例にも報告されている。
著者はこれにさらに詳細な考察を加えて上の例の田川盆地と近畿の奈良盆地の二つの地域は地名だけでなく地勢もそっくりであるということを発見した。
それはどういうことかというと、どちらの地域も大和という盆地と一山越せば難波という港を持つということである。
ある二つの地域が地名だけでなく地勢もそっくりであるという現象を地名と地勢がペアーで移動したという推定から仮に「国名地名移動法則」と名付けた。
加えてこの「国名地名移動法則」に則っている場所はこの他にも多く存在することを発見した。興味ある方は著者のホームページをごらんにいただきたい。横道に逸れるのでこれらについては別稿で考察する。
第四話 香春は我家とは
それでは、これから日本武尊が東征に出発し、「一つ松」を植えて再び戻り、亡くなったと推定する「尾津の神埼」とはどういう意義のある場所なのかを調べていこう、と思ったがまったく手がかりがない。2~3日間はぼんやりと日だけが過ぎて行く。そこで「助けてくれー」と言ったらまたそれを聞きつけて迷探偵がやって来た。いつもいつも済みません宜しくお願いします。
どれどーれ、フムフム、わしにまかせなさい。記紀の編者が何をしようとしているのかわしにはお見通しなのじゃ。特に大事なところでなにかをチョット隠すというのが記紀の編者の常套手段なのじゃ。それに騙されてはいかんぞ。それでは始めようかの。
まず、前稿「日本武尊は実在した」では「一つ松」を調べることから日本武尊の東征へ出発した「尾津」が「金田町神崎」であることを発見できたぞ。そして日本書紀では日本武尊が亡くなるときに詠んだ歌はこの「一つ松」の歌一つのみである。
ところが古事記では、日本武尊が亡くなるときに、「一つ松」の歌の他に、有名な「愛〔は〕しけやし 吾家〔わきへ〕の方〔かた〕よ 雲居起〔くもゐた〕ち来〔く〕も」の歌とその他に、数首詠まれておる。古事記で確かめて欲しい。
そこでじゃな、わしは「愛しけやし吾家・・」の歌に注目したのじゃ。その「愛しけやし吾家・・」の歌がホツマツタエでは景行天皇によって詠まれておる。
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資料3 ホツマツタエ
(景行天皇)十七年三月十二日、コユガタ(子湯潟)のニモノ(丹裳小野)に御幸され、東方をはるかに望み、古(いにしえ)に思いを馳せてのたまうは、
御祖天君(ミオヤアマキミ) 高千穂の 峯(みね)に登りて 大日山(ヒノヤマ)の
朝日に辞(いな)み 妻向い・・・中略・・・
都の空を望み忍んでの御歌に
愛(はし)きやし 我家(わぎえ)の方ゆ 雲居(くもい)立ち
雲は大和の国の秀(まほ) 又棚引(たなび)くは 青垣(あおがき)の
山も籠(こも)れる 山城(やましろ)は 命の真麻(まそ)よ
煙火(けむひ)せば 唯、 皇子(みこ)思え 香久山(くのやま)の
白樫(しらかし)の枝(え)を 髻華(うず)にさせこの子
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上の資料3のように「愛しけやし吾家・・」の歌が「ホツマツタエ」では景行天皇が日向に行幸した折に詠まれた歌になっておる。記紀の種本はホツマツタエである、何故か解るかの、それはホツマツタエとそっくりの文章が記紀に記述があるからである。つまりホツマツタエが種になっていて記紀が借用している。そのことは著者の「三書同根説」で考察してハッキリしているではないか。
ホツマツタエで「愛きやし・・」の歌を歌ったのは景行天皇である。そのことから「愛きやし・・」の歌は景行天皇の御製歌と解る。よって古事記で日本武尊が亡くなるときに「愛きやし・・」を歌ったのは景行天皇の御製歌をそのまま歌ったのである。日本書紀では日本武尊の歌ではないから歌われていない。
日本武尊が「愛きやし・・」を歌った場所と景行天皇が歌った場所はほとんど同じ場所であろう。何故か。ホツマツタエでは景行天皇が「都の空を望み忍んでの御歌」とある。それをそのままそっくりいただいて日本武尊が古事記で詠んだのであるから景行天皇と同じ都のことを歌ったのでなければ盗作にあたり失礼になる。景行天皇の御製歌だと世間に知られている歌を自分の歌だと主張はできないであろう。
したがって日本武尊の「そこより進んで能煩野にやって来た時、国を偲んで詠んだ『愛しきやし・・』の歌の「国」とは景行天皇の「都」とイクオールである。
では景行天皇がこの歌を歌った場所はどこか。そこからどちらの方向を眺めて歌ったのか。
それは資料3の中の「御祖天君 高千穂の峯に登りて 大日山の朝日に辞み 妻向い」の中に答えがある。著者のホームページでは次のように考察しているではないか。
御祖天君とは天孫ニニギ尊、高千穂の峯とは鞍手の六ヶ岳、大日山とは(大火山=阿蘇山であり)福智山連峰の「寝釈迦の姿」である。阿蘇山は寝釈迦の姿で有名である。妻とは「ホツマ国」の「ツマ」であり魏志倭人伝の「投馬国」の「ツマ」である。魏志倭人伝を正確に解読すると投馬国は筑豊平野である。また「日向国」とも同一である。著者のホームページで考察しておるではないか。
つまり鞍手の六ヶ岳から東の方を見ると朝日に光背を受けた寝釈迦の姿が見えた。よってこの国をニニギ尊が「日向」と名付けたのである(資料5参照)。日本書紀では同じ国を景行天皇が名付けたようになっているがこれは無断でホツマツタエの「日向」と名付けた由来の記事を拝借したものである。
次に目を転じて南の方大和の国の方(金田町神崎方面)をみると「我家」のほうに雲が立ち上がっている。青垣の山に囲まれた都の中に我家と香久山(香春三山)が見えた、と資料3の中で歌われているのである。
これを確かめる方法として一つの歌がある。
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資料4
抜気大首(ぬきけのおほびと)、筑紫に任ぜらるる時に豊前国の娘子紐児(ひものこ)を娶きて作る歌(万葉集巻 9・1767)
豊国の香春は我家(わぎへ) 紐の児(ひものこ)に いつがり居れば 香春は我家
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ハッキリと「我家」とは「豊国の香春」のことですと歌ってある。「我家」とは日本武尊が亡くなるときに歌ったという有名な「愛きやし 我家の方ゆ」の「我家」であると誰でも解るであろう。
大体宮崎の日向から東の方向を見ても見えるのは海であり、大日山はおろか山が見えないじゃろう。それにいくら目を凝らしてみても近畿の大和の我家が見えるはずはない。
よって景行天皇が歌い日本武尊が歌った日向から見える大和とは香春であるぞ。
朝日と朝霧というシチュエーションから考えると朝、山に登られたのであろう。ちなみに大日山とは「日枝の山」または稗の山とも言い、元祖・比叡山である。見るために登った山は「高屋山」または高粱山である。「日枝の山」はハッキリ寝釈迦の姿をしている。京都の比叡山も寝釈迦の姿をしているように見えるがなだらか過ぎてハッキリしない。比叡山を開山した最澄が唐から帰国した時真っ先に香春の地へ来ている。何故か。御霊を京都へ移し奉ったのである。これらを解説しようとすると別に一稿必要になるぞ。
= 抜粋転載おわり =
追記:
九州大和王朝論によれば、「法隆寺」と同様に、奈良「正倉院」は筑紫あるいは豊ノ国から、移築された、としています。
天皇であることを証明する神器に、秘かに加えられていた(それを国体勢力のみが知っていた)「第四の神器」である『香気あるお茶へら』という香木茶器宝物が、元は置かれていた、桃山時代にはすでに、九州ヤマト王朝天皇家の宝物類とともに、移築されていた、あの正倉院。
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== FIN ==