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何でも見てやろう、と世界のあちこち、行ってみる。歩いてみる。覗いてみる。いつの時代でも読み継がれてきた、日本のベストセラー旅行記を体験してみよう。
何でも見てやろう、と、マンボウ航海記と、永六輔 中村八大の『遠くへ行きたい』のメロディで、日本の世界を「さるく」ブームは始まったように思われる。
60年代、ほんの数年前まで、日本は海外渡航不自由な時代だった。外貨持ち出しも申告すれば自由、ではなく制限されてたし。当時は商社の海外派遣とか、学生の外国大学への公費留学がおもな海外渡航の理由だった。個人の旅行では、まだ海外渡航は不自由だった。H.I.S.の個人を団体ツアー割引で席を取って格安に航空券を販売する方式が出てきて、一気に日本人の海外旅行は開放された。
日本の海外旅行熱を育て開放してくれた、永遠の旅行記ベストセラーを見てみよう。
●『何でも見てやろう』 小田 実(まこと) 河出書房新社 1961年
小田実、1932年大阪生まれ。東大文学部卒。フルブライト留学生として渡米後、世界各地を旅行し、『何でも見てやろう』を書く
これまで多くの小説・評論・エッセイを出しており、中でも代表作である1961年(昭和36年)の『何でも見てやろう』(河出書房新社)は多くの若者達に支持され、当時のベストセラーとなった。
1950年代「世界一日一ドル旅行」として欧米からアジアにかけて貧乏旅行した小田実の体験記。色褪せないすばらしい旅行記。
”なぜヨーロッパへ来たのか、とヨーロッパ人に問われるたびに、私はいつも答えた。「そうだ、私は、あんたがたが、どれほどわれわれに、われわれの文化に冷淡であるか、あり得るか、を見に来たのだ」と。”何でも見てやろう、の東大文学部卒、フルブライト留学生は、そう言い放つ。
現代のユースホステルで出会う多くのバックパッカーは、貧乏旅行をするわけだが、まさかの時には皆、クレカを切るのである。
クレジットカードやスマートフォンに守られた貧乏旅は、それだけ生ぬるい。
何でも見てやろうのブックレビュー
http://travel-mapper.com/book/review/watch-everything.shtml より引用
≪小田氏はとにかく「何はともあれアメリカを見たかった」と語る。 ここからスタート。も う、究極の貧乏旅行。当初は「ハーバード大学」の特待生??としてアメリカヘ渡るも、 いきなり自堕落な生活。 「芸術家村」なるコミュニティーで更に自堕落な生活へと転がる。
いつまでたっても自堕落な生活から抜け出せない。確か深夜特急でも、泥沼からか這い出 るように沢木氏は移動を続けていた。 アメリカ南部そしてメキシコヘ。人種差別の現実と真の貧困というものを目の当たりにし、 小田氏は「何でも見てやろう」と堅く決心した。
これ以降、想像を絶する貧困の旅が続く。 著者は敢えて、訪れる国の「暗部」へと潜り込む。貧困の巣窟と化したスラム街。国の水準を推し量るために、小田氏は臆せず乗り込んでいった。そこには「腐敗」と「希望」が 矛盾なく存在する。≫
自宅で立ち読み〜フォトリーディング・インストラクター大嶋友秀がすすめる本のブロ
http://blog.livedoor.jp/smilingtommy/archives/1002027919.html より引用。
第294歩『何でも見てやろう』 小田実著、講談社文庫、1979年7月15日初版
≪私がこの本の中で、痛烈に好きで印象に残っているところがある。それは、全然英語ができない小田実がフルブライト留学試験に挑戦するくだりだ。「なんとかなるやろう」なんていいかげんな気持ちで挑んだ、その面接のあとのことだ。
「やっとのことで放免となり、廊下をノソノソ歩いていたら、一党の一人が追いかけてきた。こいつはもっとも難物の英語を話した男であった。彼は廊下のまんなかで私を呼びとめると何か言ったが、それがまた判らない。二三度の押し問答のあげく、『おまえは、これまで一度たりともアメリカ人と会話をしたことがなかったであろう』というようなことを言っているのが判った。事実である。
それで私は『そんなことはぼくの英語をきけばすぐに判ることではないか』と答えたら、彼は『まったくその通り』と大きくうなずいた。これで合格マチガイナシ。私はそう確信した」(p16〜17)
ここで、「合格マチガイナシ」なんて平気に思える小田の神経に、感動すらおぼえた。
その面接の準備として、立てた方針がすばらしい。分からない質問は、3度は聞き返す。そして、それでも分からなかったら、キテレツな答えを組み立てることにしていたという。
その結果、面接は笑いの連続であったらしい。この腹の括り方がすごい。実は、私もこのやり方を拝借したことがある。英語で話しかけられて、分からないと何回か聞き直すのだが、それでもダメなら、さっさと自分が言いたいことを言ってしまう。だが、そこまで腹をくくると、意外に相手の言いたいこともわかってくるのだ。
「わからないからどうしよう」なんて思うと、わからなくなるものだ。ところが「わからんのが悪いのか」と開き直れば、だいたいはわかってしまうのだ。私は、これを小田流英語コミュニケーション術と勝手に命名している。
あと、ぜひとも、まとめておきたいのが、小田流コジキ旅行の「それ相応の積極的な効用」についてである。
1) 各国の生活水準の差異が、身に沁みてよくわかる。英語で通じるホテルにいる限り気づきはしないが、最低線での生活をするとなると、各国の差が歴然として、自分の生活が急転落したり、急上昇したりする。
2) お金というものの媒介がないから、人の親切が身にしみてみて判ることである。「人間」が本来もっている良さが良く分かった。
3) お金の話と関連するが、一国の国民性がよく分かることである。たとえば、その国民が外国人に親切であるかどうか、また、親切の表し方の差異を通じて、その国民の生活様式やら思考方法にいたるまでの知識をえることができる。(p279~280を編集)
○○○
リッチな旅もいいものである。しかし、貧乏旅行も捨てたもんじゃない。お金にものを言わすのではなく、生きているという事実にものをいわせてみる。必死にその状況を楽しんでみる。かなり横着で乱暴ではあり、場合によれば危険な目にあう可能性も相当あるかもしれない。
それでも、旅してみてはじめて判るものがあるだろう。自分を信じる強さとでもいえばいいのだろうか。そんな生きる力のようなものが必要になる。ひと言でいえば、「勇気」なのかもしれない。ちょっと分からない世界にも飛び込んでみよう、何とかなるだろうし、なんて解釈してしまう「思い切り」ともいえるだろう。
この本は、時代をとびこえて、誰の心も熱くするように訴えかけてくる「青春の書」であるといえよう。私も本を置いて、旅に出たくなってきたのだ。≫
小田実一日一ドル旅行で行ったソーホー地区もMost Fashionable Neighborhoodになった
SOHO: Most Fashionable Neighborhood in New York City
New York City - Video Tour of SoHo, Manhattan
4:58
New York Habitat
https://youtu.be/wPflq6u9YWk
2009/06/19 にアップロード
●『どくとるマンボウ航海記』 北杜夫 中央公論社 1960年
北 杜夫(きた もりお、本名:斎藤 宗吉(、1927年5月1日 - 2011年10月24日)は、日本の小説家、エッセイスト、精神科医。
祖父は医師で政治家の斎藤紀一。父は紀一の養子で、歌人で医師の斎藤茂吉。兄はエッセイストで精神科医の斎藤茂太。娘はエッセイストの斎藤由香。
内容(amazon.co.jp「BOOK」データベースより)
水産庁の漁業調査船に船医として五か月の航海に出た著者が、航海生活や寄港したアジア、ヨーロッパ、アフリカの風景や文化をめぐり、卓抜したユーモアとユニークな文明批評を織りこんでつづった型やぶりの航海記。
日本人の対西欧コンプレックスのない自由で気ばらない旅行記としてたちまちベストセラーとなった。年月を経て今なお新しい、旅行記ものの先駆的作品。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%9C%E5%A4%AB より引用。
1958年 11月から翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海した。ドイツ訪問が乗船の動機だった。
この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。
その後ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年に第43回芥川龍之介賞を受賞する。以降、小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった。
水産庁漁業取締船 照洋丸 / SHOYO MARU - Fisheries Agency fishery patrol vessel
2:06
binmei jp
https://youtu.be/GVa0OmwF8-s
2015/01/22 に公開
●さらばモスクワ愚連隊 五木寛之 講談社 1967年 旅行記風小説
福岡県八女出身八女育ちの五木寛之は早稲田大学中退後、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%A8%E5%AF%9B%E4%B9%8B より引用。
1965年にかねてから憧れの地であったソビエト連邦や北欧を妻とともに旅する。帰国後は医師をしていた妻の郷里金沢で、マスコミから距離を置いて生活、小説執筆に取りかかる。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした『さらばモスクワ愚連隊』により、第6回小説現代新人賞を受賞
モスクワの華麗な地下鉄。宮殿をメトロが走っているかのよう。
MOSCOW, the famous METRO (subway, underground) STATIONS, RUSSIA
12:28
Vic Stefanu - World Travels and Adventures
https://youtu.be/RdJNkb5QK5g
●『ヨーロッパ退屈日記』伊丹一三(伊丹十三) 文藝春秋 1965年
旅行気風日本初の現代本格エッセー 父は時代劇映画監督で日本初のエッセーの大家、伊丹万作。
https://ja.wikipedia.org/ より引用。
作品誕生の経緯
『ヨーロッパ退屈日記』誕生のきっかけは、伊丹が作家の山口瞳とはじめて出会った1954年(昭和29年)に始まる。当時伊丹は商業デザイナーとして河出書房に勤めていたが、同社が発行していた雑誌『知性』の編集人であった山口と偶然親交を結ぶことになった。この交友関係は『知性』が廃刊になるまで続く。
やがて伊丹は俳優の勉強をすべく出版社を退社、新進俳優として1960年(昭和35年)に大映に入社したが、翌年にはフリーになり渡欧し、映画『北京の55日』に出演。1962年(昭和37年)に帰国した伊丹は文藝春秋新社から原稿依頼を受け、ヨーロッパ滞在時の逸話を基にした短文を書いたが不採用となった。
理由はこの短文が映画、ファッション、スポーツカー、語学など多岐にわたるテーマについて、話し言葉を多用した一見気障に思われるような独特の文体で書かれたものであるため、当時の高踏的な文芸誌にふさわしくないものと判断されたと推察される。
文藝春秋新社は、伊丹の原稿を不採用にしたものの、原稿を壽屋のPR誌『洋酒天国』に応募するよう勧める。当時、壽屋には河出書房を退社していた山口が勤めており、ここで伊丹は約7年振りに山口と再会した。伊丹の応募原稿は無事に採用されることになり、山口によって『ヨーロッパ退屈日記』と名付けられ、『洋酒天国』第56号(1963年1月発行)に、俳優時代の芸名である「伊丹一三」名義で発表された。
この記事は好評で、月刊誌『婦人画報』から続編の原稿依頼を受け、同じタイトルで同誌の1963年6月号から1965年5月号まで連載を続け、既発表分に数篇の書き下し記事を加え、単行本として『ヨーロッパ退屈日記』のタイトルで出版された。
これは、伊丹十三の文筆家としてのデビュー作であると同時に、今日、文学ジャンルとして「随筆」とはやや異なるニュアンスで用いられるようになった、本格的な「エッセイ」が、戦後の日本に誕生した瞬間でもあった。
出版状況
『ヨーロッパ退屈日記』は、俳優時代と同じ伊丹一三名義で、1965年(昭和40年)3月、文藝春秋新社からポケット文春という新書シリーズの一冊として出版された。出版にあたって、伊丹は装訂と挿絵も手がけ、イラストレーター、グラフィックデザイナーとしてもすぐれた手腕を見せた。
また、本書の表紙には、山口瞳による惹句が「この本を読んでニヤッと笑ったら,あなたは本格派で,しかもちょっと変なヒトです」と記載されているが、文中の本来読点であるべき部分がコンマになっており、山口の才気がうかがえる[独自研究?]。なお、この惹句は新潮社に出版元が移った現在も引き継がれている。
伊丹十三監督作品 映画『お葬式』 優れた映画の理由
Three Reasons: The Funeral
4:03
Robert Nishimura
https://youtu.be/kUX3dXfDJpw
●『深夜特急』 沢木耕太郎 産経新聞/新潮社 1986年
https://ja.wikipedia.org/ より引用。
『深夜特急』は、作家・沢木耕太郎による紀行小説である。
産経新聞に途中まで連載された後、1986年5月に1巻・2巻(第1便・第2便と称す)が、1992年10月に最終巻(第3便)が新潮社から刊行された。
概要
インドのデリーから、イギリスのロンドンまでを、バス(特に路線バス、高速バスなどの乗り合いバス)だけを使って一人旅をするという目的で日本を飛び出した主人公「私」の物語であり、筆者自身の旅行体験に基づいている。
当初は日本からデリーまで直行してしまうつもりだったが、途中2か所のストップオーバーが認められる航空券を手にした私は香港とバンコクを選び・・・、様々な人々と事件に出会いながらロンドンを目指す。
影響
刊行後は、バックパッカーの間でいわばバイブル的に扱われるようになり、80年代と90年代における日本における個人旅行流行の一翼を担った。その後、台湾で中国語版、韓国で韓国語版の翻訳が出版された。
あくまで個人の旅行体験記なので、旅行ガイドとしての使用には不向きだが、1970年代前半当時の交通事情、宿泊事情などを知ることもできる。さらには、途上国の貧困さの一端も巧まずして表されている。
2008年11月、作者の“一人でも多くの人にバックパッカーとなって欲しい”との願いによるエッセイ、『旅する力 ― 深夜特急ノート』が“最終便”として刊行された。
1987年、『深夜特急』が第五回日本冒険小説協会大賞ノンフィクション・評論部門大賞を受賞。1993年に『深夜特急 第三便』が第2回JTB紀行文学賞を受賞している。
行程
香港 - マカオ - バンコク(タイ) - マレーシア - シンガポール - カルカッタ(インド) - ブッダガヤ(インド) - ベナレス(インド) - カーブル(アフガニスタン) - テヘラン(イラン) - アンカラ(トルコ) - イスタンブール(トルコ) - ギリシャ - イタリア - スペイン - ポルトガル - パリ(フランス) - ロンドン(イギリス)
『深夜特急』香港- マカオ編では、マカオのリスボア・カジノで遊んだことが書かれている。
深夜特急 香港編① 大沢たかお
9:55
nihonjin888
https://youtu.be/y-Llv655XLo
2010年代、現代の香港。米国からの若いカップルの旅行者。
Vlog : WELCOME TO HONG KONG
6:59
ItsMyRayeRaye
2014/03/23 に公開
https://youtu.be/k9OfNYhU57k
ポルトガル語をしゃべるマカオカジノの観光客または芸能タレント。何を話していてるのかわからず、でも面白い。4分。
Yooppii in Macau: November 2011
3:51
Hiun Kim
2012/05/16 に公開
https://youtu.be/pVfzBndifwI
== FIN ==