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- CATEGORY歴史・日本建国
九州から近畿へ、火山災害から見た、神代の王の國から平安までの、避難民の人の流れ。
神代の王の國はすべて九州北部の同一の國 神代の王の國に、やまと朝廷の國に、九州の火山(由布岳、鶴見岳、九重山、阿蘇山、霧島、桜島)噴火が、長期に何度も、襲う。
(近畿の王の國、近畿のやまと朝廷の國に、地震はあっても火山噴火の被災の記録はない。)
■8世紀の噴火記録 鶴見 VEI・1 霧島 VEI・3 桜島 VEI・4
平城京に、鶴見 VEI・1の石が飛んできた
続日本紀
宝亀三年
772年
五月 鳴響
六月 京師に石が降る
豊国の藤原京は710年に太宰府から一日の平城京へ遷都する。そして平城京は、772年でも、奈良ではなく、火山の噴石が降ってくる場所、(太宰府から一日の)豊国(現・桂川町土師)に、あった。
■九州から近畿へ 火山災害から見た神代から平安までの人の流れ
https://youtu.be/TuvBugXMLpA
講演第1部 九州から近畿へ 火山災害から見た神代から平安までの人の流れ
2,426 回視聴?2019/10/28
1:22:20
豊の国古代史研究会
チャンネル登録者数 416人
令和1年10月27日 川崎町勤労青少年ホーム 講師 天埜貴子 東京都出身 東京大学大学院理学系研究科化学専門課程博士課終了 カナダ国立研究所勤務を経て、宇宙開発事業団で人工衛星のデータ解析などに従事。退職後、火山活動の歴史への影響を研究している。
記紀には、多くの火山活動の記事が多く見受けられる。古代倭(邪馬台)王朝は火山活動の影響を受けつつ、北部九州の豊国(豊前・豊後)に栄えた。壬申の乱以後、八世紀後半から九世紀中頃にかけて、九州から近畿地方への大遷都が行われたようだ。その遷都も火山活動の影響が認められる。
(以下に、この講演動画、画像の書き起こし要約を掲載)
神代の王の國はすべて九州北部の同一の國 神代の王の國に、やまと朝廷の國に。九州の火山(由布岳、鶴見岳、九重山、阿蘇山、霧島、桜島)噴火が、長期に何度も、襲う。
(近畿の王の國、近畿のやまと朝廷の國に、地震はあっても火山噴火の被災の記録はない。)
伊弉諾尊 ・・ 秀真(ホツマ)国 細戈千足國
大己貴大神 ・・ 玉牆(たまかき)内國 八千矛神
饒速日命 ・・ 虚空見(そらみつ)日本國
神武天皇 ・・ 秋津洲(あきつしま)日本國
古事記、日本書紀、続日本紀、に続いて三大実録までを、AC500年からBC1000年の期間の、やまと朝廷の國と火山噴火の被害の記録をデータ作成。
・天の岩戸の暗闇は、日蝕による現象ではなく、火山灰降下による暗闇
・黄泉の國の暗闇=2千数百年前の由布岳噴火の降灰現象による現象
■紀元前数百年の由布岳噴火 山体崩壊 マグマ噴火 VEI・3
イザナミの神生みから死 →黄泉の國
●古事記は由布岳の噴火活動をイザナミ命の行動として擬人化
イザナミの病気と死・・山体崩壊
カグツチ神の誕生・・ 池代溶岩の流出とドーム出現
カグツチ神の殺害・・ 塚原の流れ山群
黄泉国 ・・・・・ 火山灰降下中の由布山腹周辺
イザナミの再出現・・ 中央火口からの溶岩出現
黄泉醜女 ・・・・ 火山塊
千五百ノ黄泉軍・・・ 南面への火砕流
観測地は由布岳南西の湯布院あたりか?
黄泉平坂⇒出雲国の伊賦夜坂 由布八坂 由布岳の南斜面
●記紀神話、考古学などから解釈すると、イザナギ尊等は、傷だらけ、血だらけ、泥だらけで英彦山系の北側、筑豊に逃げ帰った。
そこで三貴子(天照大神、ツキヨミ尊、スサノオ尊)は高天原(高地)、夜之食國(筑紫)、海の國(低地)に残留することにしたが、多くの部族は新しい落ち着き先を求めて筑豊を後にした。
●紀元前200年前後の避難民等の落ち着き先
・水田耕作が高速で日本海沿岸を青森まで北上 (遠賀川式土器と鉄器を伴う)
・朝鮮半島南部大伽耶で弥生人の人口急増
・壱岐島に環濠集落出現(原の辻遺跡)
スサノオ尊は一旦は筑豊に留まるつもりだったが、噴火に山野は荒廃し、低地は二次災害の心配があり、復旧は並大抵ではない。そこで新たな地を山陰地方や朝鮮半島の日本海沿岸を放浪したが、結局適地は見つからず、故郷に近い安心院に戻り、鉄の民族八岐大蛇族を討ち払い、妻垣神社の地に居を定めた。
スサノオ尊は五十猛命等に木の種類とその使途を教え、それらの木の種を荒れた山野に蒔くよう、紀伊の國(城井川流域)に送り出した。その後、スサノオ尊は熊成峯に引退した。
五十猛命等はこの事業を次の九重山の噴火後も継続したようで大八洲の山すべて青山となった。
■紀元前二世紀後半の九重火山の噴火 (天の岩戸)
紀元前二世紀後半 マグマ水蒸気噴火 (VEI・4)
九重火山米窪火口 降下火砕物 (米窪玄武岩質スコリア)
●九重山の噴火活動をスサノオ尊の乱暴狼藉、と擬人化
・天照大神の田に二重播き・・・砂粒状の砕屑物の降下
・畔を壊し溝を埋める・・・砕石片、スコリアの大量降下
・屎まり散らす・・・屎状の火山礫の降下
・皮をはいだ馬・・・火山礫に当たって、大怪我した馬
・馬を屋根から放り込む・・・驚いた馬が破れ屋根から室内に飛び込む
・稚日女(わかひるめ)尊の死・・・日の神の死
・岩戸内に隠れる・・・遺体を岩倉(殯宮)に安置
・五月蠅なす暗闇の開始・・・火山灰の降下が激しくなる
・暗闇が何十日も続く・・・殯(かりもがり)の期間
・岩戸の前で祭り・・・葬式
・岩戸が開く・・・日の神再生(新しい日の神の誕生)
観測地は 高天原 英彦山の南面(山国町) 噴火後は添田町の高天原に移動
●前100年前後の避難民の流れ
避難先は近畿、中部地方以北や壱岐、対馬の島々、そして朝鮮半島
新羅建国時の重臣「瓠公」がもとは倭人とは、この時代の避難民のひとりだったのだろう。
●大国主命(大己貴おおなむち大神) は復興に努める。
この時期、筑豊はまだ噴火の爪痕が深く残っていて、山野は荒れたままだった。小さな村のような国が多数林立し、水、食物を巡っての争いが絶えなかった時期と思われる。
そういう時期に大国主命は筑豊の出雲国を素戔嗚命より引き継ぎ、誰も手を付けていない荒れた筑豊の平地に大規模な水利・土木工事を施し、水田を整備し、葦原瑞穂國に作り替えたようだ。
初めは飯塚方面で少彦名命と協力し、続いて田川方面で大三輪神と協力し復興に努めた。(記紀より構成)
●ニニギ尊
「瓊瓊杵尊が天の關せき、かんぬき、を開いて、噴煙が押し分け、暗闇を進み、西の果ての海辺のこの地(平塚川添遺跡?)に居を定めて以来、長い年月を経たが、村々は未だに相争って王がいない。東の方に四方青山に囲まれた美しい土地があるので、そこを都にしようと思う」
(神武紀、即位前期の神武天皇の言葉)
●海幸彦 山幸彦
山幸彦の時代も山野は荒れたまま、陸上での狩りは無理で、ほぼ海産物に頼っていた時代。山幸彦は弓矢で獲物は獲れないと知ったうえで、弓矢と釣り針を気軽に交換させている。=>弱肉強食
■1~2世紀の噴火
●由布岳 ラビリ(火山礫、火山岩片)噴火 1世紀 マグマ噴火
神武の豊国への東征
この噴火は火山礫、火山岩片が噴出されるラビリ噴火と現在では知ってしまうと、紀や熊野神社(飯塚市)社記の話の辻褄があう。
神武が立岩攻略のときに遭遇したのは、まさにこの噴火である。熊野神社の社記によると、突然、噴火が始まって、激しい風雨を伴って、切れ切れの噴煙の塊や岩や石ころが飛んできたようである。
その後は、紀によると、立岩攻略後、船に乗ったところ嵐に遭って二人の兄を失う。熊坂津で上陸後、火山ガスに中って神武軍は全員倒れてしまう。そこを高倉下に助けられたとのこと。
●鶴見岳・伽藍岳 2世紀 マグマ噴火 VEI・2
崇神記 欠史八代
●1~3世紀の避難民
瀬戸内 龍の通り道
■4世紀の九重山の大規模噴火
VEI・5
神功皇后
犀川の河川争奪(90度折れ曲がる)
四国で集落が消える
復興に100年を要する
奈良近畿に新しい集落
●5~6世紀の避難民の移動 大陸から倭国へ
ジャワ島近くの火山破局大噴火 地球寒冷化
■7世紀の噴火災害記録
壬申の乱
■8世紀の噴火記録 鶴見 VEI・1 霧島 VEI・3 桜島 VEI・4
平城京に、鶴見 VEI・1の石が飛んできた
続日本紀
宝亀三年
772年
五月 鳴響
六月 京師に石が降る
画像

出典: https://youtu.be/TuvBugXMLpA
豊国の藤原京は710年に太宰府から一日の平城京へ遷都する。そして平城京は、772年でも、奈良ではなく、火山の噴石が降ってくる場所、(太宰府から一日の)豊国(現・桂川町土師)に、あった。。
平城京は、712年に『古事記 』が元明天皇に、720年に『日本書紀』が元正天皇に献上された地でもある
== FIN ==