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- CATEGORY歴史・日本建国
古事記、日本書紀に書かれた、神代の最初の王、『天御中主』とは? イザナギの国生み以前に、倭(やまと)の国造りした、『倭成す大物主』とは?なにものか。
古事記、日本書紀では、王と妃、イザナギ、イザナミ、が日本列島の最初の国生み神生みをする。
それは紀元前4~3世紀の出来事である。
遠賀湾入り江の、おのころ島(たがやま)に降りて国見をしたイザナギ。
おのころ島の近くの、遠賀郡水巻町の立屋敷遺跡に、高床式掘立柱建物の柱跡。
推定:立屋敷遺跡の地に、伊邪那岐命の八尋殿跡の柱跡があった。、イザナギは、おのころ島があった遠賀湾の浦安の地に実在した、と推定される。立屋敷遺跡の年代は弥生後期の紀元前4~3世紀。
水巻町の立屋敷遺跡に出土した稲作を示す証拠遺物である遠賀川式土器が出土する日本全国の地点は日本列島にどのように稲作が伝搬したかを示している。
紀元前200年前後の火山噴火避難民等の落ち着き先は、日本海沿岸を青森まで北上。
・水田耕作が高速で伝搬 (遠賀川式土器と鉄器を伴う)。
紀元前4~3世紀のイザナミ、イザナギが神生み国生み、のあとに、建国の三王が出る。
スサノオ素戔男尊 ⇒ ニギハヤヒ饒速日尊=天照大神尊(紀元前1世紀) ⇒ ウガヤフキアエズ、の子の、神武天皇(121年即位)、がつづく。
中国の歴史書『宋史』に納められた日本國の王年代記には、日本の王、天皇の系譜が、書かれている。
平安時代の東大寺の僧により北宋に献上された「日本國 王年代記」は、中国の歴史書『宋史』に納められた。
それによれば、日本の王の系譜が、神代の始めから書かれている。
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宋史 日本國王年代記
出典: 福永晋三講演
おもな王
”初 天御中主・・・天村雲尊・・・ 素戔男尊 天照大神尊 正哉吾勝速日天忍穂耳尊 ・・・彦激尊 凡二十三世、並都 於筑紫日向宮 ”
そして、二十三世、みなさん、都は 筑紫日向宮にあった。
初主號・天御中主
次・天村雲尊
↓
このあいだに14世おられる。
↓
イザナギ伊弉諾尊 ⇒ スサノオ素戔男尊 ⇒ ニギハヤヒ饒速日尊=天照大神尊 ⇒ ウガヤフキアエズ、の子の、神武天皇
1世平均で二十年とすると14世で二百八十年ほどになる。
イザナギが紀元前4~3世紀とすると、古事記日本書紀の最初の王、始原の神、天御中主は、およそ今から、2500年前あたりで存在した王ということになる。
1世平均で五十年とすると(万世一系でなく在世も飛び飛びだとすると)14世で七百年ほどになる。
イザナギが紀元前4~3世紀とすると、古事記日本書紀の最初の王、始原の神、天御中主は、およそ今から、3000年前あたりで存在した王ということになる。このばあい、縄文の王ということになる。
●それでは、イザナギ伊弉諾尊の国生みの以前の、およそ数千年の間に何があったのか。何がおこったのか。
古事記、日本書紀に書かれた、神代の最初の王、初主號、『天御中主』とは? イザナギの国生み以前に、倭(やまと)の国造りした、『倭成す大物主』とは?
●鷹羽の神々 彦御山宝印 天御中主 倭成す大物主
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彦御山宝印 天御中主
出典: 福永晋三講演
●鷹羽(英彦山)の始原の神々 特別な天神 始原の五柱神
北岳・高御産巣日神たかみむすひ・・・正哉吾勝速日天忍穂耳尊
中岳・天御中主 瀬織津姫 ・・・伊邪那美尊イザナミ
南岳・神産巣日神かみむすひ ・・・伊弉諾尊イザナギ
・宇摩志阿斯訶備比古遅神・・・倭成す大物主
・天之常立神
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鷹羽(英彦山)の始原の神々 五柱神
出典: 福永晋三講演
初主號・天御中主
次・天村雲尊・・英彦山上宮祭神
あいだに14世
イザナギ伊弉諾尊 ⇒ スサノオ素戔男尊 ⇒ ニギハヤヒ饒速日尊=天照大神尊 ⇒ ウガヤフキアエズ、の子の、神武天皇
凡二十三世、並都 於筑紫日向宮
田川の古称は『鷹羽』です。
英彦山の隣は『鷹巣山』…豊前坊(高住神社)のある山です。
英彦山の門前町の領域には結界を張って信仰団領域を形成していた。
■筑豊の古代史 邪馬台国の謎に迫る
天御中主とは 倭成す大物主とは 邪馬台(やまと)とは
霊山英彦山の三つの鷹羽の祭神を深読みすると、天御中主とは 倭成す大物主とは 邪馬台(やまと)とは の謎が解ける。
4000年前の縄文時代の、この英彦山の山門(やまと)の、金の原台地には、やりがんなで仕上げられたであろう、宮殿が建っていた、らしい。
4000年前の縄文時代に絹を織っていた、縄文の卑弥呼、瀬織津姫が、そこにいたかもしれない
https://youtu.be/3FBJuz934ZM
筑豊の古代史 邪馬台国の謎に迫る 福永晋三講演
2,466 回視聴•2019/11/24
1:05:55
豊の国古代史研究会
チャンネル登録者数 464人
筑豊地区退職事務長会主催 令和元年11月24日 源じいの森 ほたる館研修室
●霊山英彦山信仰の門前町であった筑豊、添田町。
添田町の台地に広がる金の原遺跡。
中元寺から川崎町上真崎にかけて南北三キロに広がる。東は庄原遺跡に接する。
●添田町史によると、およそ4000年前の縄文時代のこの金の原台地には、やりがんなで仕上げられたであろう、宮殿が建っていた、らしい。
●4000年前の縄文時代に絹を織っていた、縄文の卑弥呼、瀬織津姫が、そこにいたかもしれない。
金の原遺跡に接する、庄原遺跡では、
「やりかんな鋳型」弥生中期2200年前 「銅と鉄の金属溶解炉跡」と絹の撚糸が出土。
筑豊添田町 庄原遺跡から出土された
銅と鉄の金属溶解炉と銅やりがんな鋳型と絹の撚糸
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金属溶解炉と銅やりがんな鋳型
出典: 福永晋三講演
大物主ー大国主系譜の合理性はメチャクチャ。
大物主が一族の始祖で、大国主は大物主の子孫。
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大物主ー大国主系譜
出典: 福永晋三講演
■イザナギのやまと国生みよりずっと大昔に、今から3000年前あたりで、稲作、植林、水利灌漑で、やまとの国造りした、宇摩志阿斯訶備比古遅神=倭成す大物主=またの名を、大己貴(おおなむち)神(大穴牟遅神)=八千矛神 ・・ その国を玉牆内(たまかきうちつ)國
崇神天皇そして卑弥呼は、天照と倭成す大物主の、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)の二神を祭った。
174年崇神天皇即位
174年 「国内に疫病が多く、民の大半が死亡する」。
(※研究によると、このときの疫病とは、豊後地方の火山噴火による亜硫酸ガスが豊国に襲ってきたことによるらしい。この火山性のガスは幾度も豊国を襲っていて、香春岳は草木も生えず石灰岩むき出し山容だったし、水は酸性で飲用に不適で、そこで斉明天皇の時代に、香春岳の石灰で酸性を中和する地下水路「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」の大整備をすることになる。(奈良の狂心の渠は偽物、豊国オリジナルの模造品))
179年 「人民が流浪し、あるものは反乱した。天皇は天照大神・倭大国魂(やまとおおくにたま)(=大物主神(おおものぬしのかみ))、二神を、宮殿内に共に祭り、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)に罪を請うた」
180年春、 「時に、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫命(あまてらすやまとととびももそひめのみこと)に憑いて、我を祭らば国は治まるであろうと告げた。神の教えのとおりに祭ったが霊験ははなかった」
180年秋、 (※天皇は神明倭迹迹日百襲姫命に言って)「天下に布告し、大田田根子(おおたたねこ)を求めると、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえのむら)(現・福岡県宗像市須恵)に彼捜し当て、11月に大物主神を祭らせた。すると、疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わった。」
この神酒(みき)は、わが神酒ならず倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久
大田田根子(おおたたねこ)=大物主の子孫
宇摩志阿斯訶備比古遅神=倭成す大物主の神徳。
大物主神を祭らせた。すると、疫病が初めて終息し、国内が次第に静まり、五穀がみのり、人民が賑わった
神明倭迹迹日百襲姫命(あまてらすやまとととびももそひめのみこと)=卑弥呼は大物主を呼び出す巫女。大物主を先祖として祭る。卑弥呼は神武天皇の系譜ではなく、大物主の一族。
== FIN ==