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kenchicjunreiのブログ2nd

Author:kenchicjunrei 日々の生活の関心ごとと建築とか、投資、金融政策、支配層のこと、などについて書いています。 記事の多いカテゴリー: 歴史・日本建国 (26)、核と人工知能 (38)、金融と起こされる事件 (45)、金融経済投資 (44)

12月11日に追記あり・4000年前の縄文時代の英彦山の金の原台地には、やりがんなで仕上げられたであろう、宮殿が建っていた。そこに絹を織っていた、縄文の卑弥呼、瀬織津姫が住んでいた、らしい。その宮殿、やりがんな、とは。 



霊山英彦山信仰の門前町であった筑豊、添田町。

添田町の台地に広がる金の原遺跡。
中元寺から川崎町上真崎にかけて南北三キロに広がる。東は庄原遺跡に接する。

添田町史によると、およそ4000年前の縄文時代のこの金の原台地には、やりがんなで仕上げられたであろう、宮殿が建っていた、らしい。

4000年前の縄文時代に絹を織っていた、縄文の卑弥呼、瀬織津姫と織姫たちが、そこにいたかもしれない。
  

金の原遺跡に接する、庄原遺跡では、
「銅やりかんな鋳型」弥生中期2200年前、「銅と鉄の金属溶解炉跡」絹の撚糸が出土。

前回記事を参照:
http://kenchicjunrei.jp/blog-entry-227.html
古事記、日本書紀に書かれた、神代の最初の王、『天御中主』とは? イザナギの国生み以前に、倭(やまと)の国造りした、『倭成す大物主』とは?なにものか




■槍鉋(やりがんな)。そのルーツ

そして日本の木造建築の古代からの木工道具、槍鉋(やりがんな)。そのルーツと言えば、

「槍先形尖頭器」と言われる、やりがんな形状の世界最古の磨製石器


これは昭和24年相沢忠洋氏によって群馬県みどり市笠懸町にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で発見発掘された。(ねずさんのひとりごと  http://nezu3344.com/blog-entry-1411.html 「磨製石器と相沢忠洋」 に詳しく書かれている。)


画像 
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岩宿遺跡で発見された磨製石器
出典:ねずさんのひとりごと「磨製石器と相沢忠洋」


考古学学会はこの磨かれた石器を「槍先形尖頭器」と言って、正面切って磨製石器とは認めようとしない。(発見者が納豆の行商をしながらの発掘ファンに過ぎないとしておきたいからだ。)


やりがんな形状のこの磨製石器は、木造建築の工作道具としてヤリガンナのような使われ方をした、と思われる。


やりがんな形状のこの磨製石器は、旧石器時代の3万年前のものとされる。
この石器は、旧石器時代の石器というだけでなく、「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」
である。

日本の道具類の進歩はすさまじく、早く速い。


(以下、ねずさんのひとりごと 「磨製石器と相沢忠洋」 より引用)


<もうひとつ、冒頭の磨製石器ですが、先の尖った形状の道具を使って、木を加工するという技術。

その技術の産物として、加工した磨製石器が出土したわけなのだけれど、このことについて、すごくおもしろいと思うのですが、奈良の法隆寺の五重塔です。


磨製石器は3万年前のもの、法隆寺の五重塔は世界最古の木造建築物とはいえ、1300年ほど前の建造物で、時代は全然違うのだけれど、耐震性や防火設備をそろえた、あの芸術品とさえいえる五重塔の建築は、釘を一本も使わず、ほとんど「槍(やり)カンナ」と呼ばれる先の尖ったノミのような道具一本で、あれだけの構造物が建設されています。


槍カンナというのは、もちろん鉄製なのだけれど、その形状は、そのまま冒頭の磨製石器が鉄になった形状のものです。

おもうにそうした日本古来の、先の尖った道具一本で、木材に様々な加工を施してしまうという技術は、日本で3万年前から使われていた磨製石器という先の尖った小型の道具を活用する技術として、日本ではものすごく古くて長い歴史と伝統の中で培われた技術であるように思えるのです。

そうでなければ、とつぜん降ってわいたように法隆寺の複雑な仕様の建築物など、突然できるものではありません。

言い方を変えると、世界最古の磨製石器が出土した日本は、世界最古の石を加工した技術国家であり、かつ、先の尖った道具一本で様々な木造加工技術を開発した技術国家でもあったといえる。

すごいことです。
なにせ技術に3万年の歴史がある!>

(引用おわり)



やりがんな形状のこの磨製石器がやがて、日本ではほぼ同時に銅器と鉄器の時代になり、鉄槍かんなが生まれた。

( https://ja.wikipedia.org/wiki/青銅器時代 より引用
日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。)



●添田町史によると、およそ4000年前の縄文時代の金の原台地には、隣接する庄原遺跡で出土した銅やりがんな鋳型遺物が示す、やりがんな形状の磨製石器から鉄槍鉋への進歩過程にあった、そんな、槍鉋で仕上げられたであろう、宮殿が建っていた、らしい。


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金の原台地の宮殿 瀬成神社伝承
出典:福永晋三講演



https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/23288643.html
彦山信仰圏の二つの瀬織津姫祭祀──汐井社と瀬成神社
2009/12/23(水) 午後 4:13

(上記記事を引用)


 村上龍生『ふるさと中元寺』(陣屋ダム対策協議会)は「瀬成の宮」と題して、実に興味深い鎮座譚(民話的鎮座伝承)を書いています。少し長い引用となりますが、以下に紹介します。

 瀬成神社も、中元寺はおろか、筑豊一円に広く、農耕、牛馬の神として、尊敬されたお宮です。
 御祭神は、
   豊宇気姫神
   瀬織津姫神
   速開津姫神
の御三神にまします。
 当社の縁起によれば、
 昔、中元寺の里は、大原庄虫生[むしお]と称していました。
 東方に高台があって、毎夜何となく騒然とするので、遠望して見ると、実に美しい大厦高楼が軒をならべ、数千の灯が宮殿の中のように燦いて見えます。近づいて見ようとすると、それは水絵のように消えて、全く何も見えなくなります。不思議という外はない現象が、毎晩起りました。
 ある日、村の子供が一人行方不明になりました。父母は我が子を失って、気の狂わんばかりに嘆き悲しみ、村人も同情して、方々を探しましたけれども、その夜は遙として行方がわからず、悲嘆にくれました。
 ところが翌朝飄然として帰って来ましたので、村民はびっくりして訳を尋ねました。

私は、昨夜独り門前にたゝずんで居ますと、素晴らしくきれいな服をまとった天女のような人があらわれて、
「私について来なさい。あなたに沢山の天女が羽衣を織っているところを見せてあげましょう。でも、ものを云ったりしてはいけません。」
と、云いました。
 私は、その女についていきました。
 着いて見ますと、大きな家が軒を連ねてたち並び、どの家もこの家も、金銀の燭台に、あかあかと灯がともって、昼をあざむくような灯のもとで、多くの天女が竝んで、銀の梭[おさ]で機[はた]を織っているではありませんか。腕にまとった錦の衣が、ひらひらと翻ってまるで胡蝶が舞っているようです。歌う声は迦陵頻伽[かりょうびんが]のようでした。
 私はこの美しい光景に見とれて、恍惚[こうこつ]となっていました。
 しばらくして、一人の老女があらわれ、
「あなたは、帰ったら村の人に告げなさい。私たちは、天祖の神勅を奉じて此の地に来ました。中心に居られた方は、豊宇気[とようけ]姫神と申されます。蚕を飼い、繭をつくり、糸をとり、機を織っています。今あなた方の着られている着物もみなそうですが、この神の御恩によるものです。
 けれども、村の人はこの神様の事を知らず鎮座する御殿もありません。相談して、速やかに神殿を建てゝ祀りなさい。」
 こう云われましたと、云ったとたんに彼の村童は倒れて、数日間人事不省におちいりました。
 村の人々は、之をきき大へん恐れ多く感じて、真心こめて宮殿を村の真中に建てゝお祀り致しました
 これがこの神社の起原です。
 それより、蚕を飼ったところを「飼野」、繭をつむいだところを「繭野」、機を織った所を衣原または錦原と云うようになりました。また、飼野と繭野は地つゞきになっていますので、飼繭などと呼んでいますが、誤り伝えられたものということです。

(引用おわり)



●4000年前の縄文時代に絹を織っていた、縄文の卑弥呼、瀬織津姫と織姫たちが、そこにいたかもしれない


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瀬織津姫 龍神 =天御中主
出典:福永晋三講演



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瀬織津姫と織姫たち はたおり機の水準
出典:福永晋三講演



●4000年前の縄文時代のこの金の原台地には、宮殿があった。その宮殿とは

繭を飼って絹織物をしていた、はたおり機を釘とかの金物を使わないで木組みにして、カビがこないようにピカピカに削っていた、そんなはたおり機の水準を持つ木造建築であった、と推定される。



●英彦山の4000年前の金の原台地の宮殿は、建築史ではどのようなものであったか?

5500年前~4000年前の縄文時代の青森・三内丸山遺跡六本柱建物よりも、紀元前3世紀の佐賀・吉野ヶ里の木造建築物に、よりリアルに近かったはずである。



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青森・三内丸山遺跡六本柱建物
出典: https://www.aomori-mazda.co.jp/rentacar/1081



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吉野ヶ里木造建築物
出典: http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c301.html




英彦山のふもとの豊国の飛鳥か筑紫国太宰府で造られた、のちに近畿に移築された、法隆寺は槍鉋で削られ仕上げられています



■槍鉋(やりがんな)の使い方

現代の平たい台鉋が刃先で削った真っ平な肌合い、とは違った、すでに使い古した、なじんだ、肌合いのように、削る。ノミのようにノミの腹の胴体を当てながら削ることで、平たい台鉋が刃先で削ったものより、木にカビがこないのです


https://youtu.be/EKC6k0Epsl0


やりかんな.mov
6,832 回視聴•2011/09/07
8:11
genjinrui
チャンネル登録者数 725人
槍かんな。
「大工」ときどき「料理人」生活DIY研究家リズミー吉田です。
独自の視点から、大工道具を紹介します。





■槍鉋(やりがんな)の使い方

鍛冶屋さんの舟弘さんが一尺一寸五分の杉の古木の大黒柱をやり鉋で削って仕上げます

https://youtu.be/gJnZ4YLm7RQ


舟弘のやり鉋削り ( 削ろう会 ダイアン建築)
80,203 回視聴•2011/11/02
3:56
daian550
チャンネル登録者数 133人
与板の鍛冶屋さんの舟弘さんが一尺一寸五分の杉の古木の
大黒柱をやり鉋で削って仕上げます。




== FIN ==





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