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- CATEGORY歴史・日本建国
近畿のヤマト朝廷が唯一無二という歴史の常識反して、ここにも九州ヤマト朝廷論のひとがいます。もとは倭国にいた天武天皇の「壬申の乱」による即位は正統なものではなかった。『日本書紀』は、倭国の記憶を取り組み、倭国の存在を抹殺して作られた。
守谷健二という方は、正統にも次のことを言っています。
七世紀半ばでも日本列島は単一王朝の時代ではなかった。
「白村江の敗戦(663)」で知られる唐・新羅連合軍と戦った『倭国』は、近畿大和王朝ではない。九州筑紫を京とし、日本列島の代表王朝であった。近畿大和王朝の上位者と振舞っていた。
『日本書紀』は、倭国の記憶を取り組み、倭国の存在を抹殺して作られたのだ。唯単に天武天皇を正統化するために。
「壬申の乱」の天武の決起には、正統性など全くなかったのである。完全なだまし討ちである。奈良時代の王朝人等は、天武の正統性を認めていない。
(以下、転載はじめ)
副島隆彦の学問道場
重たい掲示板
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/
[2138]天武天皇の正統性について
投稿者:守谷健二
投稿日:2017-05-19 13:03:44
『日本書紀』の持つ、相反する二つの正統性
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾子孫(あがうみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)いて治(しら)せ。行矣(さきくいませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんこと、当に天壌(あめつち)とともに窮り無かるべし。」『日本書紀』より
上の記事は、日本国の主神天照大神が、理想の国土日本を天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に与え、皇統が永遠に続くこと(天壌無窮)を約した「日本神話」の肝心要の部分である。
皇統の継承は、あくまでも親から子に、が大前提であり、それだけが天皇の正統性を保証した来た。日本には(易姓)革命が起きなかったことを誇りにしてきた。 天地開闢以来近畿大和王朝しか日本列島に君臨した王朝はなかった、というのが『日本書紀』の歴史である。
しかし、この『日本書紀』の編纂を命じたのは、天武天皇(在位673~686)であった。天武天皇は、天智天皇(661~671)の長男・大友皇子(明治に追号弘文天皇)を滅ぼして(壬申の乱)即位した。
『日本書紀』は、天武の方が本来の正統な皇位継承者であり、その地位を大友皇子に譲ってやったのに、その恩を忘れ、大友皇子が危害を加えようとした。それで仕方なく決起したのだ、と『日本書紀』に記す。
『日本書紀』は、天武天皇の即位を正統化するために編まれたものである。しかし、奈良時代の王朝人等は、天武の正統性を認めていない、否定している。皇位の簒奪者と、天武天皇を認識していた。
皇統の永続性などと云っても、七世紀半ばでも日本列島は単一王朝の時代ではなかったのである。「白村江の敗戦(663)」で知られる唐・新羅連合軍と戦った倭国は、近畿大和王朝ではない。九州筑紫を京とし、日本列島の代表王朝であった。近畿大和王朝の上位者と振舞っていた。
『日本書紀』は、倭国の記憶を取り組み、倭国の存在を抹殺して作られたのだ。唯単に天武天皇を正統化するために。「壬申の乱」の天武の決起には、正統性など全くなかったのである。完全なだまし討ちである。
天武は、己を正統化するために、歴史を捏造し、創造したのである。
副島隆彦の学問道場
重たい掲示板
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:3
[2118]天武天皇の正統性について
投稿者:守谷健二
投稿日:2017-03-27 13:54:51
今一度「壬申の乱」について
壬申の乱(西暦672年)は、天智天皇の長男・大友皇子(明治に追号され弘文天皇)を天智の弟と『日本書紀』が記す大海人皇子(天武天皇)が討伐した戦いです。
『日本書紀』は、日本国の最初の正史です。その正史は、天武天皇の決起は正統(正当)であったと主張しています。
奈良時代「壬申の乱」に触れた文献は4点残されている。『日本書紀』・『古事記』序文・『万葉集』第二巻の高市皇子に奉げた柿本人麿の挽歌・『懐風藻』の大友皇子伝です。
『日本書紀』『古事記』『万葉集』の三者は、天武天皇の正統性を主張しています。もっとも『日本書紀』は、天武の命令で編纂を開始されたのですから、天武を正統化するのは当然でしょう。
しかし、現在我々は何の疑いも抱くことなく天武の決起に始まる内戦を「壬申の乱」と呼んでいます。
「乱」とは、秩序(現状)を破壊する行為を指します。天武の行為を「乱」と呼んだ最初の文献が『懐風藻』です。
『懐風藻』は、天武の決起を「乱」であったと言い切ります。天武の正統性、正義を否定しています。
『懐風藻』は、天平勝宝三年(741年)に上梓されています。東大寺大仏の開眼供養の前年です。『懐風藻』は、天武天皇の正統性を全面的に否定したのですが、何のお咎めを受けることなく現在に受け継がれてきました。そして「乱」と呼ぶことが定着したのです。
これは奈良時代の人々の誰もが、天武天皇の決起に正統性がなかったことを認識していたからではないか、真実は『懐風藻』にある、と。
『万葉集』は、単に歌を収集した歌集ではない。明らかに政治的意図(天武天皇の即位を正統化する)を持った歌集である。柿本人麿の作歌は『日本書紀』編纂作業と密接に絡み合っているのである。
大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 庵(いほ)らせるかも (第三巻)
玉襷(たまたすき) 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あま)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 岩走る 近江の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲ししも (第一巻、29)
ともに人麿の歌です。大君は 神にしませば・・・の歌は、何の解説も必要ないでしょう、明快な歌です。故に〈29〉の歌の解説をします。
この歌の題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とあります。『万葉集』に登場する最初の人麿歌です。
内容
「畝傍の橿原の宮に即位された神武天皇以来、神の御子である天皇が次々と大和の地で天下を治めになっていたのに、どのように思われたのか天智天皇は近江の国の大津に都を遷された。
その大津の宮は、今は荒れ果て、大宮の跡、大殿の跡はこの辺だというが、春の草が生い茂っているばかりである。春霞の中、大津の宮を見ていると悲しみがこみあげてくる。
初代の神武天皇以来、神の御子である天皇が絶えることなく大和の地で、天下を治めてこられた、と歌っているのだ。
しかし、私は『旧唐書』を基に七世紀後半まで、日本の代表王朝は、筑紫に都を置く倭国であったことを論証した。倭国と日本国(大和王朝)は別王朝であったのだ。倭国が上位で大和王朝は下であった。この関係が逆転するのは天智天皇の時である。倭国が無謀な朝鮮出兵に惨敗したためである。倭国の自滅により天智天皇が日本の王者に就いたのである。
それが真実の歴史である。天武天皇の歴史編纂は、真実を隠蔽する、歴史を改竄する作業であった。人麿もこの歴史改竄事業の真っただ中にいたのである。歴史改竄、全く新しい歴史創造の中心人物こそ柿本人麿である。
人麿が、地方の下級官吏などであったはずがないのだ。
(転載おわり)