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- CATEGORY歴史・日本建国
『源氏物語』の舞台の「桂離宮」は、その時代には倭国王朝の都、太宰府の水城にあったものを江戸時代に京都に移築したもの。奈良飛鳥の現在の法隆寺は、670年に全焼失した倭国朝廷による法隆寺(若草伽藍)跡横に、太宰府に建っていた倭国王朝の法興寺を移築したもの。
奈良や京都の現在の古都文化、法隆寺、東大寺、桂離宮といった、現代の日本人がこれぞ日本文化の華、日本建築の粋、と思う感じているものは、
じつは、日本建国時の500年代後半から600年代初頭には、九州倭国やまと王朝の文化資源としてあったものをそっくりそのまま、その後、解体し移築したものなのです。
京の庭園_桂離宮 紹介
●京の庭園_桂離宮 Katsura Imperial Villa
9:16
Sunday Sharaku
https://youtu.be/PVSiQdOW09Y
2016/04/27 に公開
京都・桂離宮の写真スライドショー。庭園はツツジの花盛り。日本建築の粋と評価される新御殿・中書院・古書院は想像以上のキレイさでした。茶室や茶屋のひなびた趣も素晴らしい。
●『ひらがな日本美術史』4巻/橋本治 読後ブログ
https://showhyuga.blogspot.jp/2008/11/blog-post.html より引用
橋本さんによると、桂離宮は「体感する美」で、「行って、その場で見る」しかないものなんだそうだ。
「人の視線に応じて姿を変える生き物」だから、「一瞬を切り取る写真」ではそのすごさがわからない。
桂離宮は「もっとも典型的に日本の美意識を語るもの」で、その「日本の美意識」っていうのは、例の、「流れ」なのだ。「静止しない」ということ。
「時間の流れを描くのは日本の絵画の常識だ」って、前に出てきたけど、「建物まで静止しない」ってすごいよねぇ。
日本人ってヤバくね?(笑)
●桂離宮 日本の庭園美の極致
http://ameblo.jp/alanis-ballet-paris/entry-10928526740.html より引用
憧れの桂離宮に行ってきた
NHKの特集を見たり、橋本治の「ひらがな日本美術史」を読んで、「いいなー。行きたいな」と思えども、宮内庁管理の桂離宮への道は遠く、なんと3か月前に予約して、抽選で当たってようやく見学許可が下りるのである。
庭の光景は、一足ごとに姿を変えるスペクタクル。
桂離宮は回遊式日本庭園の極致であり、これに並ぶ庭は龍安寺(枯山水、つまり別の様式の庭)くらいしかないのではないかと思った。
桂離宮は、私の過剰な期待を少しも裏切らなかった。完璧に美しい姿を、瞬間瞬間で少しずつ変えながら見せてくれた。
●法隆寺 五重塔 心柱で建物全体を吊る、免震耐震テクノロジーのすごさ
■法隆寺 五重塔を1/3で再現 〜再現から分かるその強さ〜
3:12
大須賀技建
https://youtu.be/NXMB453vnAE
2014/10/20 に公開
法隆寺 五重塔の免震耐震テクノロジーを採用した東京スカイツリー
■東京スカイツリー心柱・制震装置(NHK BS放映)
9:54
寺井貞夫
https://youtu.be/D-erzqonPZM
2012/03/29 に公開
usagi2580 は共有ビデオファイルです。
1:地震対策(心柱、制震装置 芯柱長さ 375M 重量11000トン)
芯柱の施工状況(236日かかった)
法隆寺は、九州王朝「倭国」の都、大宰府から移築された。
桂離宮(=桂殿)は、実在の皇子、光源氏が自らが建築・施行したものであり、ずっと後代「源氏物語」の愛読者であった八条宮智仁親王が1600年代に、大宰府水城(=大堰)で奇跡的発見から、京都の桂川のほとりへ移築したもの。
(以下、引用はじめ)
“抹 殺”された §…九州王朝「倭国」…§
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/
1999年 2月 11日 初掲載
米田良三著「法隆寺は移築された」は、古代史を解明するうえで、すばらしくも画期的です。
なんと 法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より「移築」されていた。
なお、この著書の中で移築元が、大宰府「観世音寺」(左図は当時をしのぶ絵図) だとする説については、その後、「異論」も出されているが、この「異論」に対しては、私は「九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った」と考えています。
以前より、私は古田武彦氏の著書で九州王朝「倭国」の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、すっきりしませんでした。
本書に出会い「法隆寺が九州からの移築である」と知ったとき、九州王朝『 倭国 』の存在・実在を確信しました。
法隆寺の移築元の云々はさりながら、彼は「 藥師寺 」・「 東大寺 」が、宇佐八幡宮にほど近い 倭国の聖地・「 小倉山 」より移築されたもの。「 東大寺 」の正式名称「 金光明四天王護国の寺 」の「 金光 」は 「 倭国の元号(=九州年号 」 であり、「金光元年(西暦570年)」に完成していると言い。
また、『これまで世界最古の木造建築とされていた「法隆寺(前身=法興寺)」の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が、否、最近では517年創建の「長谷寺」が、これから世界最古の木造建築とされよう』とも述べています。
さらに『今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮(吉野ヶ里からの移築)・伊勢神宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。』と述べています。
確かに北部九州の、特に宇佐から大宰府、更に吉野ヶ里にかけて 「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの「…廃寺跡」 が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり倭国から大和へ移築されたのでしょう。 それはまた何故?私に限らず興味の引かれるところです。
Ⅰ・『源氏物語』 と 『桂離宮(=桂殿)』
さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する 『「源氏物語」はもともと九州「倭国」を舞台にした作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たもの、「源氏物語」の本来の中心は現「京都」ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的にはさかのぼること法興寺(=観世音寺の前身)創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する 壬申乱672年迄の間に限定できる。』 とものべています。
「源氏物語」の舞台であるその現在地はというと、
★難波が現在の博多、
★住吉大社は博多駅の南西にある住吉神社、
★田蓑島は、住吉神社の南にある美野島、
★難波の浦とは袖の湊、
★伊勢は加布里の隣・大石(神在?)あたり、
★須磨は今津湾の周船寺あたり、
★明石は須磨の隣・姪浜あたり、
★逢坂の関は関屋あたり、
★吉野は佐賀の遺跡のある吉野ヶ里あたり
に比定できると言う。
紫式部と原著作との距離・方向・位置・気候の微妙な感覚差が伝わりましょうか。雪が降る情景の京都から吉野は無理でも、大宰府からは吉野ヶ里も降ってるとわかるその違いです。
『「源氏物語」で桂殿はどのように語られているのか見てみよう。源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君の上京を促される。明石の君のために入道(父)は京に住まいを用意する。その場所は「大堰川の近く」「大堰」と表現される。そしてごく近いところに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう。
桂離宮(=桂殿)は、光源氏が教養を併せ持つ実在の皇子であり、皇子自らが建築・施行したものであり、ずっと後代「源氏物語」の愛読者であった八条宮智仁親王が徳川初期の1600年代に、大宰府水城(=大堰)で奇跡的発見から京都の桂川のほとりへ移築したもの。』 とのべています。
(引用おわり)
== FIN ==