- 0 COMMENT
- SHARE
- TWEET
- EDIT
- CATEGORY歴史・日本建国
近年架空の人物とされる飛鳥斑鳩にいた聖徳太子は、同じ600年代初頭、九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の都・太宰府に天皇として実在した。その地で冠位十二階を制定し、遣隋使を出し、仏教を信仰し半跏思惟の座禅を組み、法興寺=のちに移築され法隆寺、を建立した。
満鉄調査部の出身で早大教授となった津田左右吉(つだ そうきち)は、戦前に、2代綏靖(すいぜい天皇)から9代開化(天皇)までの八代の天皇を「欠史八代」とし、これに続く10代崇神(天皇)、11代垂仁(天皇)、12代景行(天皇)、13代成務(天皇)、14代仲哀(天皇)および神功皇后までの実在を否定する、「欠史13代不在説」を主張し、弾圧も受けた。
戦後は、一転して、津田の「欠史13代不在説」は、日本の歴史学会と社会文化一般の主流となった。崇神、景行、神功など論じるものは学会でも社会でも、まっとうな席を得ることは難しい。さらには、近年は、神武、ヤマトタケル、聖徳太子までが、架空の人物と、とされてしまっている。聖徳太子はお札からきえたばかりでなく、肖像画も引用されなくなっている。
ハッキリ言おう。欠史八代、崇神、景行、神功、神武、卑弥呼、ヤマトタケル、聖徳太子、はみなさん、実在した。
近畿大和朝廷の神話、偉人、複数で一人物を形成する集積合成人物、としではなく、みなさん、実在の九州の邪馬臺國(ヤマト国)に天皇として、実在した。
ただし、聖徳太子は、自らを"日出ずる処の天子"とした天皇であり、推古天皇の摂政となったわけでも、厩戸皇子(うまやどのみこ)といわれる出生の皇族でもなかった。
その意味で、厩戸皇子、推古天皇の摂政としての聖徳太子は存在しない。
600年代初頭、冠位十二階を制定し、遣隋使を遣わし、仏教を信仰し半跏思惟の座禅を組み、法興寺=のちに移築され法隆寺、を建立した、という事績をなした人物は、ひとりしかいない。
九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の都・太宰府に天皇として実在した、日出ずる処の天子
=天皇、多利思北孤(タリシホコ)ということになる。
300年代前半、神功皇后は、神武、卑弥呼、倭タケル、の系譜の豊ノ国邪馬臺國(やまと国)の朝廷と王族を滅ぼしたあと、
神功皇后自身は、滅ぼした豊ノ国邪馬臺國(やまと国)で天皇に即位し、豊ノ国とは別の地、みぬま(水沼/三潴)の皇都(現・久留米市)に、紀の武内宿禰による紀氏王権(倭の五王がつづく)を、立てる。
みぬまの皇都は、やがて筑紫太宰府に都を移し、倭の五王{讃、珍、済、興、武}の王権が続いた。
倭王武のとき=全国視野の律令制が始まる。
倭王武のあとの哲(=筑紫の磐井)を倒した継体天皇のとき、豊ノ国邪馬臺國は復活し、豊ノ国邪馬臺朝廷の体制は継承される。
継体天皇のとき 邪馬臺國王朝は、筑紫国=本朝、豊ノ国=東朝、が共存。
豊ノ国の邪馬臺國朝廷は東朝とされ、
筑紫国の邪馬臺國朝廷は本朝とされた。
■倭国筑紫王朝=本朝に、阿毎・多利思北孤 = 日出ずる処の天子 という天皇が現れる。
■多利思北孤は、東朝と本朝で兄弟治世をおこなう。
[隋書 俀國 に 東朝と本朝の兄弟統治とある]
筑紫国の邪馬臺國朝廷=本朝に、かなりの権勢を持った天皇=日出ずる処の天子=多利思北孤が出る。600年に遣隋使を隋の王宮に詣でさせた。
●多利思北孤の事績
「隋書 俀國伝」に記述のある「九州倭国王阿毎多利思北孤」が「隋の文帝、煬帝」と行った外交折衝。
「600年、607年の隋への使者派遣」、
「九州倭国王は男子」
「倭国の内官の位階は十二等」
「十七条の憲法」
「倭国には阿蘇山がある」、
「隋朝に対して仏教の教えを請う」、
「日出ずる処の天子…問題」、
「隋煬帝による倭国確認のための使者裴清の派遣」
●600年、607年に遣隋使
●冠位は十二階
●太宰府に法興寺を建立
●副都である近畿地方に、王族と補佐をする蘇我氏を派遣
●奈良地方の飛鳥斑鳩に「飛鳥寺」「法隆寺(若草伽藍)」を建立
670年、法隆寺(若草伽藍)焼失。
天智天皇のとき、焼失した奈良斑鳩の法隆寺跡に、太宰府の法興寺を移築
「日本書紀」は、筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の天皇、多利思北孤による事績を、近畿大和の斑鳩に移植し、膨らませた聖徳太子像を、厩戸皇子、推古天皇の摂政とすることで、実在の聖徳太子=天皇、多利思北孤、ならびに九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)を貶め、天皇、多利思北孤、ならびに九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の「実在」を、徹底して隠した、のである。
日本書紀編纂を命じた天武天皇は、筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の天皇、多利思北孤の子か孫の皇子だった。心的な祖先殺しだ。シェークスピアだな。
ライバルの豊ノ国東朝の天智天皇を黄泉の淵に追い込み、壬申の乱に勝利して、強力な中央集権律令国家を造る門口に立った天武は、ヤマト国を「日本」とし、大君に天皇という言葉をあてることを大陸の権力に正式に認めさせるにあたって、ニニギ(とニギハヤヒ)に始まる万世一系のはずの豊ノ国の系譜とは違う、みずからの出自、神功が豊ノ国の系譜を滅ぼしたその、筑紫の側の王朝の天皇であるという、、過去のしがらみは消しておきたかった。
壬申の乱のあと、筑紫豊国のやまと王朝を近畿奈良に遷都することを決めた天武天皇は、のちに奈良で、日本書紀編纂を命じるにあたって、やまと王朝が神武いらい九州豊国に存在してきたことを、日本書紀では、抹消してしまうことを硬く決意していた。
ニギハヤヒの遠賀湾豊国での足跡、神武の豊国香春での足跡、卑弥呼の豊国香春での足跡、聖徳太子=天皇、多利思北孤の筑紫太宰府での足跡、これらは日本書紀では、天武は、怨念のように徹底、排除させている。
自分が生まれた天皇の系譜を消し去りたかった天武天皇は、本当は何者?
草薙の剣に祟られた、といって崩御した天武天皇は、自らの天皇の証明に弱みがあった?
壬申の乱は近畿大和で起きたのではなく、倭国ヤマト王朝でおこなわれた故事である。大海人皇子天武天皇は仏門に入るとして豊ノ国山国川の現・山国町耶馬溪の吉野宮に篭った。そして天智天皇は筑紫であり豊ノ国である遠賀湾の岸に、履物だけ残して、帰らぬまま。天智天皇は近畿大和ではなく、豊ノ国ヤマト朝で崩御した。
[講演ビデオ]
「壬申の乱の本質―倭国本朝vs倭国東朝」 福永晋三 20170129 @大任町公民館
1:46:12
崗縣
https://youtu.be/khTOUPafQ48
2017/02/09 に公開
神功皇后紀と魏志倭人伝 平成二九年一月二九日(日) 於 大任町公民館 記紀万葉研究家 「神功皇后紀を読む会」主催 福永晋三
== FIN ==
戦後は、一転して、津田の「欠史13代不在説」は、日本の歴史学会と社会文化一般の主流となった。崇神、景行、神功など論じるものは学会でも社会でも、まっとうな席を得ることは難しい。さらには、近年は、神武、ヤマトタケル、聖徳太子までが、架空の人物と、とされてしまっている。聖徳太子はお札からきえたばかりでなく、肖像画も引用されなくなっている。
ハッキリ言おう。欠史八代、崇神、景行、神功、神武、卑弥呼、ヤマトタケル、聖徳太子、はみなさん、実在した。
近畿大和朝廷の神話、偉人、複数で一人物を形成する集積合成人物、としではなく、みなさん、実在の九州の邪馬臺國(ヤマト国)に天皇として、実在した。
ただし、聖徳太子は、自らを"日出ずる処の天子"とした天皇であり、推古天皇の摂政となったわけでも、厩戸皇子(うまやどのみこ)といわれる出生の皇族でもなかった。
その意味で、厩戸皇子、推古天皇の摂政としての聖徳太子は存在しない。
600年代初頭、冠位十二階を制定し、遣隋使を遣わし、仏教を信仰し半跏思惟の座禅を組み、法興寺=のちに移築され法隆寺、を建立した、という事績をなした人物は、ひとりしかいない。
九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の都・太宰府に天皇として実在した、日出ずる処の天子
=天皇、多利思北孤(タリシホコ)ということになる。
300年代前半、神功皇后は、神武、卑弥呼、倭タケル、の系譜の豊ノ国邪馬臺國(やまと国)の朝廷と王族を滅ぼしたあと、
神功皇后自身は、滅ぼした豊ノ国邪馬臺國(やまと国)で天皇に即位し、豊ノ国とは別の地、みぬま(水沼/三潴)の皇都(現・久留米市)に、紀の武内宿禰による紀氏王権(倭の五王がつづく)を、立てる。
みぬまの皇都は、やがて筑紫太宰府に都を移し、倭の五王{讃、珍、済、興、武}の王権が続いた。
倭王武のとき=全国視野の律令制が始まる。
倭王武のあとの哲(=筑紫の磐井)を倒した継体天皇のとき、豊ノ国邪馬臺國は復活し、豊ノ国邪馬臺朝廷の体制は継承される。
継体天皇のとき 邪馬臺國王朝は、筑紫国=本朝、豊ノ国=東朝、が共存。
豊ノ国の邪馬臺國朝廷は東朝とされ、
筑紫国の邪馬臺國朝廷は本朝とされた。
■倭国筑紫王朝=本朝に、阿毎・多利思北孤 = 日出ずる処の天子 という天皇が現れる。
■多利思北孤は、東朝と本朝で兄弟治世をおこなう。
[隋書 俀國 に 東朝と本朝の兄弟統治とある]
筑紫国の邪馬臺國朝廷=本朝に、かなりの権勢を持った天皇=日出ずる処の天子=多利思北孤が出る。600年に遣隋使を隋の王宮に詣でさせた。
●多利思北孤の事績
「隋書 俀國伝」に記述のある「九州倭国王阿毎多利思北孤」が「隋の文帝、煬帝」と行った外交折衝。
「600年、607年の隋への使者派遣」、
「九州倭国王は男子」
「倭国の内官の位階は十二等」
「十七条の憲法」
「倭国には阿蘇山がある」、
「隋朝に対して仏教の教えを請う」、
「日出ずる処の天子…問題」、
「隋煬帝による倭国確認のための使者裴清の派遣」
●600年、607年に遣隋使
●冠位は十二階
●太宰府に法興寺を建立
●副都である近畿地方に、王族と補佐をする蘇我氏を派遣
●奈良地方の飛鳥斑鳩に「飛鳥寺」「法隆寺(若草伽藍)」を建立
670年、法隆寺(若草伽藍)焼失。
天智天皇のとき、焼失した奈良斑鳩の法隆寺跡に、太宰府の法興寺を移築
「日本書紀」は、筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の天皇、多利思北孤による事績を、近畿大和の斑鳩に移植し、膨らませた聖徳太子像を、厩戸皇子、推古天皇の摂政とすることで、実在の聖徳太子=天皇、多利思北孤、ならびに九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)を貶め、天皇、多利思北孤、ならびに九州筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の「実在」を、徹底して隠した、のである。
日本書紀編纂を命じた天武天皇は、筑紫の邪馬臺國(ヤマト国)の天皇、多利思北孤の子か孫の皇子だった。心的な祖先殺しだ。シェークスピアだな。
ライバルの豊ノ国東朝の天智天皇を黄泉の淵に追い込み、壬申の乱に勝利して、強力な中央集権律令国家を造る門口に立った天武は、ヤマト国を「日本」とし、大君に天皇という言葉をあてることを大陸の権力に正式に認めさせるにあたって、ニニギ(とニギハヤヒ)に始まる万世一系のはずの豊ノ国の系譜とは違う、みずからの出自、神功が豊ノ国の系譜を滅ぼしたその、筑紫の側の王朝の天皇であるという、、過去のしがらみは消しておきたかった。
壬申の乱のあと、筑紫豊国のやまと王朝を近畿奈良に遷都することを決めた天武天皇は、のちに奈良で、日本書紀編纂を命じるにあたって、やまと王朝が神武いらい九州豊国に存在してきたことを、日本書紀では、抹消してしまうことを硬く決意していた。
ニギハヤヒの遠賀湾豊国での足跡、神武の豊国香春での足跡、卑弥呼の豊国香春での足跡、聖徳太子=天皇、多利思北孤の筑紫太宰府での足跡、これらは日本書紀では、天武は、怨念のように徹底、排除させている。
自分が生まれた天皇の系譜を消し去りたかった天武天皇は、本当は何者?
草薙の剣に祟られた、といって崩御した天武天皇は、自らの天皇の証明に弱みがあった?
壬申の乱は近畿大和で起きたのではなく、倭国ヤマト王朝でおこなわれた故事である。大海人皇子天武天皇は仏門に入るとして豊ノ国山国川の現・山国町耶馬溪の吉野宮に篭った。そして天智天皇は筑紫であり豊ノ国である遠賀湾の岸に、履物だけ残して、帰らぬまま。天智天皇は近畿大和ではなく、豊ノ国ヤマト朝で崩御した。
[講演ビデオ]
「壬申の乱の本質―倭国本朝vs倭国東朝」 福永晋三 20170129 @大任町公民館
1:46:12
崗縣
https://youtu.be/khTOUPafQ48
2017/02/09 に公開
神功皇后紀と魏志倭人伝 平成二九年一月二九日(日) 於 大任町公民館 記紀万葉研究家 「神功皇后紀を読む会」主催 福永晋三
== FIN ==