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- CATEGORY歴史・日本建国Ⅱ・言語族からみた歴史
世界の諸言語の起源を言語族からみた樹形図として纏めてみる。ムー大陸から来たシュメール人。世界史のシュメール、日本列島縄文のシュメール、日本建国時のシュメール。
『人類史に於る日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥 』なる言語学を、世界の諸言語の起源について、ムー大陸沈没による民族大移動に始まる言語族の樹形図として、まとめてみる。
■7万5千年前に、太平洋プレートとインド・プレートとの境目に有るインドネシアの「トバの超巨大噴火」が起こり、大地震と共に太平洋プレートの上に有ったムー大陸は海面下へ沈んだ。
ムー大陸が沈んだ時、
南西方向に逃げたのが、御釈迦さんも血を受けているムー大陸黒人系●ドラビダ語族(今日のタミル語、シンハラ語)・●スーダンギニア語族(ハウサ語)・●バンツー語族(スワヒリ語)
西に逃げたのが黄色人種系の●アルタイ語族(今日のトルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]、シュメール語)、
北へ逃げたのがアイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等の●ウラル語族である。
ムー大陸からこのメラネシア語族が西に逃げて、後に漢民族となった元アフリカからの●コイサン語族が進化した人種が西から遣って来て混血してできたのが●マレー・ポリネシア語族である。
アイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等の●ウラル語族は、今日の北極が北極でなかった時期に沈没したムー大陸から、アイヌのみアジアに残し今の北極を突っ切って、ヨーロッパ入りしたムー大陸白人系クロマニヨン諸民族である。
更に詳細を語ると、ウラル語族中ハンガリー人の祖先の●匈奴=フン族だけは現ヨーロッパの真北まで行ってから南下する事をせず、
同じく現北極経由ではあったがヴォルガ河水源地の北東地域へ南下してここを根拠地とし、北アジア地域、東欧地域に広がり、アッティラ王の時代にヨーロッパ諸国を攻めて現ハンガリーの地域に民族国家を樹立した。
■紀元前4万年頃に、古代ラテン人とギリシャ人は、アトランティス大陸へ移住した。
■紀元前2000年頃に、ノアの大洪水が起こり、アトランティス大陸全体が沈んだ。
●セム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、複雑度において退化して発生した、●ゲルマン語族(SVO)。
紀元前2000年頃に、水彗星が地球に衝突してノアの大洪水が起こり、ユーラシア大陸ではセム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、
文法の複雑度において退化して発生したのが●聖書で言う“ヤテベ”=白人(地球上現在唯一の現生人類のホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族(SVO)[ドイツ人、オーストリア人、アングロ・サクソン人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人]である。
その地に移住して居住していたギリシャ人と古代ラテン人は海に放り出され、以降長きに渡ってギリシャ人と古代ラテン人は海の民となった。
シュメール民族がメソポタミアの地に有った時期に、ノアの大洪水が起こった正確な年号は紀元前2083年。グチアン王朝のシャル・カリ・シャッリ王の治世とイギギ王の治世の間に紀元前2083年から紀元前2050年の間が空位となっている事から推定できる。
●古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、●現代ラテン語族
古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)(SVO)である。
ついでまでに述べると現在地球上に住む全人類の中、蒙古班を持たない人種は現生人類白人(ホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族●ゲルマン民族のみである。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する。
●現在の日本語は百済語
我々が今日喋っているのは百済語である。そして今日の朝鮮韓国語は新羅語である。
我々が今日喋っている日本語とは百済語であるのは、日本列島の支配民族が最終的にシュメールを破った天皇一族の百済人(弥生人)となったからである。
勿論天皇一族には、破った後呑みこんだセム化(ユダヤ化)したシュメール王朝のユダヤの血と、後に聖徳太子の時代に遣って来た純然たるユダヤ族のハタ一族のユダヤの血が混じっているのであろう。
■ヤップ遺伝子を持っていた、日本列島に共存して住んでいた、シュメール人とアイヌ人
■YAP遺伝子を持っているのは、日本原住縄文系アイヌ人と日本原住縄文系日本人と日本原住縄文系シュメール人。そして中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在した日本に戻ったシュメール人。
元々アイヌが持っていたY染色体の特別な形態のYAP遺伝子を持ち歩き、中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在したのがシュメール人である。今日でもアイヌ系の90%がYAP遺伝子を持っており、縄文系日本人が65%持っており、後YAP遺伝子を持っているのは世界でユダヤ人、アラビヤ人のみである。
日本原住黄色人種の縄文シュメール人は、紀元前9000年頃に、ヤップ遺伝子を持って中東へ海路民族大移動をし、メソポタミアの地に人類初のメソポタミヤ文明(シュメール文明)を開闢した(紀元前9000年)が、
7320年続いたシュメール文明は、シュメール王国のバビロニア第1王朝が紀元前1680年頃にシュメールの王アビ・エシェフの治世を以って滅亡し(紀元前1680年)、シュメールの一団はチグリス・ユーフラテス川の源流のアナトリア地方まで退却して、ヒッタイト王国を創り(紀元前1680年)、
もう一団はシュメール文字で書かれた7320年前の古文書を基に、日本に海路戻った。
日本に戻って来た時、既にセムと混血していたシュメールはアイヌと戦争し、
日本に戻って来たシュメールは、弥生人=百済人上陸以前の、当時の日本列島縄文系原住民の支配民族となり、九州に作った王朝のシュメール最後の王子が日本武尊だった。
●九州にシュメールの王朝。メソポタミアの地に赴かず日本に留まり続けたシュメール物部氏が司った出雲大社と、出雲族。
日本全国に神社を創りその総本山は、シュメール物部氏が司った出雲大社。
日本に戻って来て九州に陣取ったシュメールの、当時の本州に於ける拠点は、タケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]の名越[ナゴヤ]一族、海のつわもの三浦一族、ヒッタイトの流れを汲む古代製鉄所の有った石巻であった。
日本にはこのヒッタイトと同じ石巻の製鉄所が古代から有った為に、青銅器時代が無く、鉄器時代が始まっている。
●出雲大社を司った日本原住縄文シュメール系、物部氏の穏滅
出雲大社を司ったシュメール系物部氏は後に、高句麗系曽我氏に敗れ穏滅する。
高句麗系曽我氏は百済系中大兄の御王子(後の天智天皇)が百済系中臣鎌足(後の藤原氏)と謀って蘇我入鹿を宮中で暗殺した時に滅亡する。
奥州平泉の藤原氏は蝦夷地に有るにも拘らず、アイヌでもシュメールでもなく、相当純粋な百済系である事が、今日残っているミイラから推察できる。
●出雲大社系の全国の多くの旧神道は、百済族の天皇一族による伊勢神宮ユダヤ一神教(神社裏手に縄文アラハバキ神を祀る)に衣替え 国譲りの実行
縄文系シュメールが取り仕切っていた列島原住民の出雲大社を中心とした旧神道は、
百済族の天皇一族が伊勢神宮を中心とした新しい神道へと衣替えした時、神社の裏手にアラハバキ神として祭られて今日に至っている。
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■A章;新規加筆>人類史に於る日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥
2016-02-01 13:12:58
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-12123808509.html
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(以下、抜粋引用はじめ)
では、世界の諸言語の起源を樹形図として以下に纏めよう。
7万5千年前に、太平洋プレートとインド・プレートとの境目に有るインドネシアの「トバの超巨大噴火」が起こり、大地震と共に太平洋プレートの上に有ったムー大陸は海面下へ沈んだ。
ムー大陸が沈んだ時、
南西方向に逃げたのが、御釈迦さんも血を受けているムー大陸黒人系ドラビダ語族(今日のタミル語、シンハラ語)・スーダンギニア語族(ハウサ語)・バンツー語族(スワヒリ語)
、西に逃げたのが黄色人種系のアルタイ語族(今日のトルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]、シュメール語)、
北へ逃げたのがアイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等のウラル語族である。
南西方面に逃げたのがドラビダ語族(今日のタミール語、シンハラ語。釈迦にはこのドラビダ語族のインド原住民の血が混ざっている)のその後の発展進化に付いては更に先の段落で展開する。
オーストラリア大陸の原住民アボリジニーが進化してムー大陸に移り住んだのがメラネシア語族であり、元のムー大陸の南方に一部或る大きさで残っていたムー大陸の部分も沈んだ時に、
ムー大陸からこのメラネシア語族が西に逃げて、後に漢民族となった元アフリカからのコイサン語族が進化した人種が西から遣って来て混血してできたのがマレー・ポリネシア語族である。
マレー・ポリネシアのタイ語やカンボジア語が中国語系と見誤れる理由は、マレー・ポリネシア系がメラネシア系だけでなく、漢民族と同じコイサン語族系の血も受けているからである。
アイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等のウラル語族は今日の北極が北極でなかった時期に沈没したムー大陸から、アイヌのみアジアに残し今の北極を突っ切って、ヨーロッパ入りしたムー大陸白人系クロマニヨン諸民族である。
更に詳細を語ると、ウラル語族中ハンガリー人の祖先の匈奴=フン族だけは現ヨーロッパの真北まで行ってから南下する事をせず、
同じく現北極経由ではあったがヴォルガ河水源地の北東地域へ南下してここを根拠地とし、北アジア地域、東欧地域に広がり、アッティラ王の時代にヨーロッパ諸国を攻めて現ハンガリーの地域に民族国家を樹立した。
(抜粋引用おわり)
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■B章;新規加筆>人類史に於る日本人、ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥
2016-02-01 12:58:39
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-12123807659.html
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(以下、抜粋引用はじめ)
■付きの見出しは、管理人による。
■紀元前4万年頃に、古代ラテン人とギリシャ人は、アトランティス大陸へ移住した。
古代ラテン人とギリシャ人はヨーロッパで発生したのだが、古代ラテン人の中、ルーマニア人だけをヨーロッパに残して、
古代ラテン人とギリシャ人は紀元前4万年頃に、大西洋に有るアトランティス大陸へと移住した。
■紀元前2000年頃に、ノアの大洪水が起こり、アトランティス大陸全体が沈んだ。
セム語族(VSO)から、ゲルマン語族(SVO)
紀元前2000年頃に、水彗星が地球に衝突してノアの大洪水が起こり、ユーラシア大陸ではセム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、
文法の複雑度において退化して発生したのが聖書で言う“ヤテベ”=白人(地球上現在唯一の現生人類のホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族(SVO)[ドイツ人、オーストリア人、アングロ・サクソン人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人]である。
ノアの大洪水が起こって海の水が急に増えてアトランティス大陸の平野部を海が蔽い、その海水の重さでアトランティス大陸全体が沈み(この仕組みでの大陸の沈み込みを地球物理学に於いて提起するのは佐野千遥が初めてである。
参考までに述べるとグリーンランドは氷の重さで島の中心部は海抜マイナス300メートルである。)、その地に移住して居住していたギリシャ人と古代ラテン人は海に放り出され、以降長きに渡って
ギリシャ人と古代ラテン人は海の民となった。
■古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族
古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)(SVO)である。
ついでまでに述べると現在地球上に住む全人類の中、蒙古班を持たない人種は現生人類白人(ホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン民族のみである。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する。“ギリシャ人 蒙古班”と入力してGoogle検索をして見て下さい。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する事がお分かりになると思います。
■現在の日本語は百済語
我々が今日喋っているのは百済語である。そして今日の朝鮮韓国語は新羅語である。
平成天皇が何年か前に韓国を訪れた時、「桓武天皇の母親は百済から嫁入りした。」と言った。実際、桓武天皇の時代には百済から遣って来た桓武天皇の母親が百済語を喋っても、宮中がほぼ同じ百済語を喋っていたから、言葉の問題が生じなかったのである。
我々が今日喋っている日本語とは百済語であるのは、日本列島の支配民族が最終的にシュメールを破った天皇一族の百済人(弥生人)となったからである。
勿論天皇一族には、破った後呑みこんだセム化(ユダヤ化)したシュメール王朝のユダヤの血と、後に聖徳太子の時代に遣って来た純然たるユダヤ族のハタ一族のユダヤの血が混じっているのであろうが、“日本人が黄色人種セム族・本来のユダヤ人の源流”という仮説は無理であり成り立たないのである。
■ヤップ遺伝子を持っていた、日本列島に共存して住んでいた、シュメール人とアイヌ人
(シュメール人は)紀元前9000年頃に、アイヌのヤップ遺伝子を持って中東へ海路民族大移動をし、
メソポタミアの地に人類初のメソポタミヤ文明を開闢した(紀元前9000年)が、
セム族に囲まれて支配し支配されてセムと混血し、
7400年の後にそのアッカド王国が攻め滅ぼされ[註1]、現トルコ領のアナトリア地方に逃げてヒッタイト王国を成した一団と、―――ー 日本に戻って来た一団に分かれた。
日本に戻って来た時、既にセムと混血していたシュメールはアイヌと戦争し、
シュメールの最後の王子が日本武尊であり、弥生人=百済人上陸以前の当時の日本列島原住民の支配民族となり、
■九州にシュメールの王朝 シュメール物部氏が司った出雲大社 名越と三浦と石巻
日本全国に神社を創りその総本山はシュメール物部氏[註2]が司った出雲大社であり、
日本に戻って来て九州に陣取ったシュメールの、当時の本州に於ける拠点は、タケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]の名越[ナゴヤ]一族、海のつわもの三浦一族、ヒッタイトの流れを汲む古代製鉄所の有った石巻であった。
日本にはこのヒッタイトと同じ石巻の製鉄所が古代から有った為に、青銅器時代が無く、鉄器時代が始まっている。
■YAP遺伝子を持っているのは、アイヌ人と中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在した日本に戻ったシュメール人。
元々アイヌが持っていたY染色体の特別な形態のYAP遺伝子を持ち歩き、中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在したのがシュメール人である。今日でもアイヌ系の90%がYAP遺伝子を持っており、縄文系日本人が65%持っており、後YAP遺伝子を持っているのは世界でユダヤ人、アラビヤ人のみである。
そもそも、ユダヤ人がユダヤ教をユダヤ教として定義し、ユダヤ王国やイスラエル王国が国としての形態を持つようになったのは、その遥か昔からシュメールがメソポタミアの地を統治し、
ノアが生きていた頃の紀元前2000年にノアの大洪水から遡る事1000年の紀元前3000年頃にユダヤ教にとってユダヤ人の租である予言者アブラハムが現れ、紀元前2000年にノアの大洪水が起こってから700年から900年経った後で、紀元前1680年を以ってシュメール王国が滅亡し国としてはメソポタミアの地からはシュメールが消え去った後の、
紀元前13世紀にモーセがユダヤ教を整え、紀元前11世紀にイスラエル王国、紀元前10世紀にユダヤ王国が建国されたのであるから、
ユダヤ族の血の中にシュメールが持ち寄ったYAP遺伝子が持ち込まれており、そうなるとノアの大洪水の丁度その時にヤテベ族がセム族から進化発展したとすると、ヤテベ族=ゲルマン人もシュメールの持ち寄ったYAP遺伝子を持っていなければならなくなるが、
実際には今日の一般のゲルマン人がYAP遺伝子を持っていない事実と、ハザールに流れ込んだユダヤ教ヤテベがフン族と混血した時にYAP遺伝子を持っていた事実とから、
ヤテベ・ゲルマンの進化発生は正確には紀元前2000年ノアの大洪水より前、そしてシュメールがメソポタミア文明を中東に開闢した紀元前9000年より前でなければならなくなり、
セムから発生したヤテベ・ゲルマンの中のユダヤ教を捨てなかったヤテベ・ゲルマンのみがアブラハムより遥か以前から民族を形成していたセムと一緒にシュメールからYAP遺伝子を貰い受けた事と成る。
[註1]:正確に言うと、7320年続いたシュメール文明は、シュメール王国のバビロニア第1王朝が紀元前1680年頃にシュメールの王アビ・エシェフの治世を以って滅亡し(紀元前1680年)、シュメールの一団はチグリス・ユーフラテス川の源流のアナトリア地方まで退却して、ヒッタイト王国を創り(紀元前1680年)、
もう一団はシュメール文字で書かれた7320年前の古文書を基に、日本に海路戻った。
九州に陣取ったシュメール王朝の最後の王子が日本武尊である。
又、シュメール民族がメソポタミアの地に有った時期に、ノアの大洪水が起こった正確な年号は紀元前2083年である事が、
シュメールの歴代の王の治世の年代一覧を見た時、グチアン王朝のシャル・カリ・シャッリ王の治世とイギギ王の治世の間に紀元前2083年から紀元前2050年の間が空位となっている事から推定できる。
■出雲大社を司ったシュメール系物部氏の滅亡
[註2]:出雲大社を司ったシュメール系物部氏は後に、高句麗系曽我氏に敗れ滅亡する。
高句麗系曽我氏は百済系中大兄の御王子(後の天智天皇)が百済系中臣鎌足(後の藤原氏)と謀って蘇我入鹿を宮中で暗殺した時に滅亡する。
奥州平泉の藤原氏は蝦夷地に有るにも拘らず、アイヌでもシュメールでもなく、相当純粋な百済系である事が、今日残っているミイラから推察できる。
■出雲大社の旧神道、神社裏手にアラハバキ神 百済族の天皇一族による伊勢神宮
7400年間セム族に囲まれて生活した中東から戻って来た殆どセム化したシュメールが取り仕切っていた列島原住民の出雲大社を中心とした旧神道は、
百済族の天皇一族が伊勢神宮を中心とした新しい神道へと衣替えした時、神社の裏手にアラハバキ神として祭られて今日に至っているが、
この“アラハバキ”とはセム語のアラビヤ語で解釈すると“アラハ”=“アラッハ”=allah=????はアラーの神の意味であり、“アバキ”は“アバック”が「奴隷」の意味で、abakを所有格とする為に語尾に[i]を付けてabaki=of slaveの格活用をして「奴隷の」の意味になっている、と解釈できるのである。つまり“アラハバキ”とは「奴隷の神」の意味で有る。
■天皇家(百済人)と高句麗人の曽我氏との混血の、聖徳太子のマルチ・リンガル
聖徳太子は10人位の人を前にして同時にその10人と会話したとの逸話が有るが、これは実は百済語、高句麗語、シュメールの持って帰ったセム語、新羅語、中国語をマスターしていた聖徳太子が、集まった各国の客人との会話で同時通訳を遣ったと解釈するのが順当であろう。
聖徳太子は天皇家(百済人)と高句麗人の曽我氏との混血で、
新羅語を使って新羅と和を結び、中国語を使って遣隋使、遣唐使を送り、当時セム化して日本に戻ってきていたシュメール人達から学んだシュメール語=セム語を使って、当時滅亡した後秦から新羅経由で失われたユダヤの十士族の一つが日本に遣って来ていたそのユダヤ人“秦野”=相談役と意志の疎通が自由にできた、と見る事ができる。
■シュメール人のシュメール文字と戦闘能力
太古の昔日本を発った頃のアイヌとの平和共存とは違って、8000年後中東から日本に戻ったシュメール族は、今度はアイヌと戦争してしまうのだが、
石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったシュメール人に対して、文字を持たないアイヌ人は、戦術を変更するには司令官たちが一堂に会して合議せねばならない結果、戦闘において個人プレーしか出来ず、戦力に於いて圧倒的に劣っていた。
“海の兵(つわもの)”シュメール人の日本武尊は東国を討ちに行くには至る所、敵と出くわす陸路を避け、必ず海路で移動した。三浦半島の突端の走水(はしりみず)の地に、日本武尊の妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に入水して嵐が収まったという神話が残っているのは海の兵(つわもの)三浦一族[註]もシュメールであった事を意味する。
つまり日本武尊は東国を征伐しに行くのに東国のシュメールの拠点まで海路行き、そこから上陸して、陸路進軍しアイヌと陸上の合戦を行ったと考えられる。
[註}:三浦一族の本拠は、今日その城跡が残る衣笠城(横須賀市の衣笠)である。
■宮崎県美々津川河口の岩場にシュメール文字 宇佐神宮の御物にシュメール文字
シュメールが九州を拠点としていた事は、日本武尊が東国の征伐に向かう為、そこから船出をしたと記録が有る宮崎県(熊本県)美々津川の河口の岩場にシュメール文字が刻まれており、
また日本武尊が東国征伐に出陣する時に饗宴を開いたとの記録で示される今日の大分県宇佐に有る神社の御物にシュメール文字が刻まれた石板が残っている事からも、推察できる。
■九州のシュメール族と、大和の百済族の天皇一族 の戦い
中東から日本に戻ったシュメール族は九州に陣取っていたが、そこに朝鮮半島から百済族の天皇一族が来襲した。しかし文字を持ったシュメールは文字を当時未だ持っていなかった百済族よりも戦争をする上で優っていた。
シュメール側は石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったが、万葉仮名を発明する以前の文字を持たない状態に有った百済族の天皇一族は初戦に敗れ、アイヌが治めている手薄な中国地方の瀬戸内海側を伝って近畿まで逃れ、其処に陣取った。
■シュメール王国の最後の王子 日本武尊は伊吹山に上り、百済族に挟み撃ちを受けて討ち死
日本武尊は九州に陣取ったシュメール王国の最後の王子で、最後にシュメール人タケイナダネ王の尾張名古屋[ナゴヤ]から上陸して伊吹山に上り、百済族に挟み撃ちを受けて討ち死にしたが、
その先何をしようとしていたかというと、琵琶湖の南岸をかすめて、奈良・京都の百済人の天皇一族を討とうとしていたと考えられる。
■天皇一族にシュメールを通してユダヤの血 聖徳太子の時、ユダヤ人秦氏が直接天皇家に血族的に関係
日本武尊が討ち死にして、九州のシュメール王朝も近畿の百済族の天皇一族に攻め滅ぼされ、家系として百済族の天皇一族に呑み込まれる事と成る。
ここに天皇一族にシュメールを通してユダヤの血が混じった経緯が有る。
あるいはその後、聖徳太子の時代に新羅経由で日本に遣って来たユダヤの失われた10氏族の一つの“秦氏”が、日本全国の神社を伊勢神宮系として再編成した際に、日本各地に伊勢神宮系神社擁立の為派遣された分けであるが、そのユダヤ人秦氏がその時期に直接天皇家に血族的に関係したかもしれない。
鎌倉時代から現代史までのシュメール一族
■名越一族と三浦一族 と源頼朝 源氏
三浦一族は、日本武尊が伊吹山で戦死した時に同時に百済族に攻め滅ぼされたシュメールのタケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]から、名越[ナゴヤ]一族が海路逃げて、三浦半島の海のつわもの三浦一族の所に助けを求めて来たので、三浦は名越一族に鎌倉と逗子の境目に領地を与え、名越[ナゴヤ]一族はそこに“名越[ナゴエ]の館”を構えた。
この名越一族は、後に三浦一族が源頼朝を、ぶっちがいになった岩の間を人一人だけ通れる名越切通し、稲村ケ崎切通し、朝比奈切通しによって守られた “陸の要塞”鎌倉に招致して以来、
それまで逗子・鎌倉の境目の名越の地に陣取っていた名越一族は、頼朝とその後の執権北条氏に仕えることに成り、特に元々平家方であったにも拘らず石橋山の合戦以来頼朝に支えたが故に頼朝に重用されたが弱小軍勢しか持っていなかった北条氏により重宝がられた。
少し時代を遡るが、源平の合戦時に、平家方より源氏方の方が海戦に於いて遥かに勝(まさ)っていたのは、源氏方には“海の兵(つわもの)”シュメールの名越一族、三浦一族が付いていたからである。
■元寇とシュメール・名越一族 北条氏と足利尊氏 尊氏は寝返り室町幕府
元寇を迎え撃ったのは北条時宗と言われるが、実は北条氏は弱小軍勢しか持っていなかったために、元寇の際の日本軍の主力はシュメール・名越[ナゴヤ]一族であった。
そのように元寇に於ける日本軍の主力ともなった程強い軍勢であった名越一族は、しかし、鎌倉幕府末代の北条氏に“後醍醐天皇を討て!”との命を受け、名越高家は足利尊氏を副官として京都に攻め上ったが、楠正成、赤松氏の曲者に敗れ討ち死にし、
名越の大軍は雪崩を打って崩壊した。それを見ていて足利尊氏は寝返り、後醍醐天皇と結んで、室町幕府を開いた。
鎌倉では主力軍の名越一族が出払った後、弱小な手勢しか持たなかった執権北条氏の鎌倉幕府は、新田義貞程度の軍勢に稲村ケ崎切通しを超えて襲われただけで、あっけなく滅亡した。
■江戸末期に名越家は会津藩の中枢に
鎌倉時代に養子一人を北条氏から送り込まれて北条氏に取り込まれた名越一族であったが、北条氏の鎌倉時代には日本各地に名越一族から名越越前の守、名越越中の守、名越越後の守、会津の守が送り出され、江戸末期に名越家は会津藩の中枢に有った。
■幕末に官軍に会津戦争で敗れ、名越一族は北海道に屯田兵
会津藩は幕末に官軍に会津戦争で敗れ、名越一族は北海道に屯田兵として落ち延びたが、その際に未だ乳飲み子であった末子・名越俊六は、
屯田兵として北海道の厳しい気候に耐えるには余りに幼過ぎた為に、会津に残った高い位の畑家(日本人の名前で発音が[ハタ][ハタノ]であれば文字に無関係に全てユダヤ)に養子として預けられ成人し、
太平洋戦争末期には本土決戦の総責任者・畑俊六元帥となった。
■敗戦を認める決断をさせた、本土決戦総司令官・畑俊六元帥は
本土決戦総司令官・畑俊六元帥は広島原爆炸裂の際に至近距離の国鉄広島駅構内に居たにも拘らず、殆ど無傷で、直ちに広島現地で救援活動を開始し、
約一週間後に昭和天皇に東京に召喚され、玉音放送の直前の御前会議の直前に、3人の元帥のみを集めて昭和天皇は一つの質問をした。
“本土決戦をしたなら、勝てるか?”というのが昭和天皇が3人の陸軍元帥に尋ねた質問であった。他の2人の元帥は、“良く戦って見せましょう!”と答えたが、広島原爆まで見て来た畑俊六元帥は“勝てる自信は御座いません。”と答えた。
この畑俊六の返答が昭和天皇にとっていよいよ敗戦を認める決断をさせた、と言われる。
この畑俊六元帥はセム化したシュメールの末裔である。
(抜粋引用おわり)
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== FIN ==
■7万5千年前に、太平洋プレートとインド・プレートとの境目に有るインドネシアの「トバの超巨大噴火」が起こり、大地震と共に太平洋プレートの上に有ったムー大陸は海面下へ沈んだ。
ムー大陸が沈んだ時、
南西方向に逃げたのが、御釈迦さんも血を受けているムー大陸黒人系●ドラビダ語族(今日のタミル語、シンハラ語)・●スーダンギニア語族(ハウサ語)・●バンツー語族(スワヒリ語)
西に逃げたのが黄色人種系の●アルタイ語族(今日のトルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]、シュメール語)、
北へ逃げたのがアイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等の●ウラル語族である。
ムー大陸からこのメラネシア語族が西に逃げて、後に漢民族となった元アフリカからの●コイサン語族が進化した人種が西から遣って来て混血してできたのが●マレー・ポリネシア語族である。
アイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等の●ウラル語族は、今日の北極が北極でなかった時期に沈没したムー大陸から、アイヌのみアジアに残し今の北極を突っ切って、ヨーロッパ入りしたムー大陸白人系クロマニヨン諸民族である。
更に詳細を語ると、ウラル語族中ハンガリー人の祖先の●匈奴=フン族だけは現ヨーロッパの真北まで行ってから南下する事をせず、
同じく現北極経由ではあったがヴォルガ河水源地の北東地域へ南下してここを根拠地とし、北アジア地域、東欧地域に広がり、アッティラ王の時代にヨーロッパ諸国を攻めて現ハンガリーの地域に民族国家を樹立した。
■紀元前4万年頃に、古代ラテン人とギリシャ人は、アトランティス大陸へ移住した。
■紀元前2000年頃に、ノアの大洪水が起こり、アトランティス大陸全体が沈んだ。
●セム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、複雑度において退化して発生した、●ゲルマン語族(SVO)。
紀元前2000年頃に、水彗星が地球に衝突してノアの大洪水が起こり、ユーラシア大陸ではセム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、
文法の複雑度において退化して発生したのが●聖書で言う“ヤテベ”=白人(地球上現在唯一の現生人類のホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族(SVO)[ドイツ人、オーストリア人、アングロ・サクソン人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人]である。
その地に移住して居住していたギリシャ人と古代ラテン人は海に放り出され、以降長きに渡ってギリシャ人と古代ラテン人は海の民となった。
シュメール民族がメソポタミアの地に有った時期に、ノアの大洪水が起こった正確な年号は紀元前2083年。グチアン王朝のシャル・カリ・シャッリ王の治世とイギギ王の治世の間に紀元前2083年から紀元前2050年の間が空位となっている事から推定できる。
●古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、●現代ラテン語族
古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)(SVO)である。
ついでまでに述べると現在地球上に住む全人類の中、蒙古班を持たない人種は現生人類白人(ホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族●ゲルマン民族のみである。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する。
●現在の日本語は百済語
我々が今日喋っているのは百済語である。そして今日の朝鮮韓国語は新羅語である。
我々が今日喋っている日本語とは百済語であるのは、日本列島の支配民族が最終的にシュメールを破った天皇一族の百済人(弥生人)となったからである。
勿論天皇一族には、破った後呑みこんだセム化(ユダヤ化)したシュメール王朝のユダヤの血と、後に聖徳太子の時代に遣って来た純然たるユダヤ族のハタ一族のユダヤの血が混じっているのであろう。
■ヤップ遺伝子を持っていた、日本列島に共存して住んでいた、シュメール人とアイヌ人
■YAP遺伝子を持っているのは、日本原住縄文系アイヌ人と日本原住縄文系日本人と日本原住縄文系シュメール人。そして中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在した日本に戻ったシュメール人。
元々アイヌが持っていたY染色体の特別な形態のYAP遺伝子を持ち歩き、中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在したのがシュメール人である。今日でもアイヌ系の90%がYAP遺伝子を持っており、縄文系日本人が65%持っており、後YAP遺伝子を持っているのは世界でユダヤ人、アラビヤ人のみである。
日本原住黄色人種の縄文シュメール人は、紀元前9000年頃に、ヤップ遺伝子を持って中東へ海路民族大移動をし、メソポタミアの地に人類初のメソポタミヤ文明(シュメール文明)を開闢した(紀元前9000年)が、
7320年続いたシュメール文明は、シュメール王国のバビロニア第1王朝が紀元前1680年頃にシュメールの王アビ・エシェフの治世を以って滅亡し(紀元前1680年)、シュメールの一団はチグリス・ユーフラテス川の源流のアナトリア地方まで退却して、ヒッタイト王国を創り(紀元前1680年)、
もう一団はシュメール文字で書かれた7320年前の古文書を基に、日本に海路戻った。
日本に戻って来た時、既にセムと混血していたシュメールはアイヌと戦争し、
日本に戻って来たシュメールは、弥生人=百済人上陸以前の、当時の日本列島縄文系原住民の支配民族となり、九州に作った王朝のシュメール最後の王子が日本武尊だった。
●九州にシュメールの王朝。メソポタミアの地に赴かず日本に留まり続けたシュメール物部氏が司った出雲大社と、出雲族。
日本全国に神社を創りその総本山は、シュメール物部氏が司った出雲大社。
日本に戻って来て九州に陣取ったシュメールの、当時の本州に於ける拠点は、タケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]の名越[ナゴヤ]一族、海のつわもの三浦一族、ヒッタイトの流れを汲む古代製鉄所の有った石巻であった。
日本にはこのヒッタイトと同じ石巻の製鉄所が古代から有った為に、青銅器時代が無く、鉄器時代が始まっている。
●出雲大社を司った日本原住縄文シュメール系、物部氏の穏滅
出雲大社を司ったシュメール系物部氏は後に、高句麗系曽我氏に敗れ穏滅する。
高句麗系曽我氏は百済系中大兄の御王子(後の天智天皇)が百済系中臣鎌足(後の藤原氏)と謀って蘇我入鹿を宮中で暗殺した時に滅亡する。
奥州平泉の藤原氏は蝦夷地に有るにも拘らず、アイヌでもシュメールでもなく、相当純粋な百済系である事が、今日残っているミイラから推察できる。
●出雲大社系の全国の多くの旧神道は、百済族の天皇一族による伊勢神宮ユダヤ一神教(神社裏手に縄文アラハバキ神を祀る)に衣替え 国譲りの実行
縄文系シュメールが取り仕切っていた列島原住民の出雲大社を中心とした旧神道は、
百済族の天皇一族が伊勢神宮を中心とした新しい神道へと衣替えした時、神社の裏手にアラハバキ神として祭られて今日に至っている。
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■A章;新規加筆>人類史に於る日本人,ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥
2016-02-01 13:12:58
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-12123808509.html
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(以下、抜粋引用はじめ)
では、世界の諸言語の起源を樹形図として以下に纏めよう。
7万5千年前に、太平洋プレートとインド・プレートとの境目に有るインドネシアの「トバの超巨大噴火」が起こり、大地震と共に太平洋プレートの上に有ったムー大陸は海面下へ沈んだ。
ムー大陸が沈んだ時、
南西方向に逃げたのが、御釈迦さんも血を受けているムー大陸黒人系ドラビダ語族(今日のタミル語、シンハラ語)・スーダンギニア語族(ハウサ語)・バンツー語族(スワヒリ語)
、西に逃げたのが黄色人種系のアルタイ語族(今日のトルコ語、モンゴル語、満州語、韓国朝鮮語[=新羅語]、日本語[=百済語]、シュメール語)、
北へ逃げたのがアイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等のウラル語族である。
南西方面に逃げたのがドラビダ語族(今日のタミール語、シンハラ語。釈迦にはこのドラビダ語族のインド原住民の血が混ざっている)のその後の発展進化に付いては更に先の段落で展開する。
オーストラリア大陸の原住民アボリジニーが進化してムー大陸に移り住んだのがメラネシア語族であり、元のムー大陸の南方に一部或る大きさで残っていたムー大陸の部分も沈んだ時に、
ムー大陸からこのメラネシア語族が西に逃げて、後に漢民族となった元アフリカからのコイサン語族が進化した人種が西から遣って来て混血してできたのがマレー・ポリネシア語族である。
マレー・ポリネシアのタイ語やカンボジア語が中国語系と見誤れる理由は、マレー・ポリネシア系がメラネシア系だけでなく、漢民族と同じコイサン語族系の血も受けているからである。
アイヌ人、バスク人、フィンランド人、ハンガリー人、エストニア人、チェチェン人等のウラル語族は今日の北極が北極でなかった時期に沈没したムー大陸から、アイヌのみアジアに残し今の北極を突っ切って、ヨーロッパ入りしたムー大陸白人系クロマニヨン諸民族である。
更に詳細を語ると、ウラル語族中ハンガリー人の祖先の匈奴=フン族だけは現ヨーロッパの真北まで行ってから南下する事をせず、
同じく現北極経由ではあったがヴォルガ河水源地の北東地域へ南下してここを根拠地とし、北アジア地域、東欧地域に広がり、アッティラ王の時代にヨーロッパ諸国を攻めて現ハンガリーの地域に民族国家を樹立した。
(抜粋引用おわり)
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■B章;新規加筆>人類史に於る日本人、ユダヤ人の位置を言語科学から解明す!スミルノフ学派佐野千遥
2016-02-01 12:58:39
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-12123807659.html
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(以下、抜粋引用はじめ)
■付きの見出しは、管理人による。
■紀元前4万年頃に、古代ラテン人とギリシャ人は、アトランティス大陸へ移住した。
古代ラテン人とギリシャ人はヨーロッパで発生したのだが、古代ラテン人の中、ルーマニア人だけをヨーロッパに残して、
古代ラテン人とギリシャ人は紀元前4万年頃に、大西洋に有るアトランティス大陸へと移住した。
■紀元前2000年頃に、ノアの大洪水が起こり、アトランティス大陸全体が沈んだ。
セム語族(VSO)から、ゲルマン語族(SVO)
紀元前2000年頃に、水彗星が地球に衝突してノアの大洪水が起こり、ユーラシア大陸ではセム語族(VSO)から、言語進化が性能を上げる方向に転じ、
文法の複雑度において退化して発生したのが聖書で言う“ヤテベ”=白人(地球上現在唯一の現生人類のホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン語族(SVO)[ドイツ人、オーストリア人、アングロ・サクソン人、オランダ人、デンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人]である。
ノアの大洪水が起こって海の水が急に増えてアトランティス大陸の平野部を海が蔽い、その海水の重さでアトランティス大陸全体が沈み(この仕組みでの大陸の沈み込みを地球物理学に於いて提起するのは佐野千遥が初めてである。
参考までに述べるとグリーンランドは氷の重さで島の中心部は海抜マイナス300メートルである。)、その地に移住して居住していたギリシャ人と古代ラテン人は海に放り出され、以降長きに渡って
ギリシャ人と古代ラテン人は海の民となった。
■古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族
古代ローマ人にゲルマンとケルトが混血して出来たのが、現代ラテン語族(イタリア、スペイン、ポルトガル、フランス)(SVO)である。
ついでまでに述べると現在地球上に住む全人類の中、蒙古班を持たない人種は現生人類白人(ホモサピエンス・サピエンス)のゲルマン民族のみである。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する。“ギリシャ人 蒙古班”と入力してGoogle検索をして見て下さい。白人でもクロマニヨン系白人であればギリシャ人も蒙古班を有する事がお分かりになると思います。
■現在の日本語は百済語
我々が今日喋っているのは百済語である。そして今日の朝鮮韓国語は新羅語である。
平成天皇が何年か前に韓国を訪れた時、「桓武天皇の母親は百済から嫁入りした。」と言った。実際、桓武天皇の時代には百済から遣って来た桓武天皇の母親が百済語を喋っても、宮中がほぼ同じ百済語を喋っていたから、言葉の問題が生じなかったのである。
我々が今日喋っている日本語とは百済語であるのは、日本列島の支配民族が最終的にシュメールを破った天皇一族の百済人(弥生人)となったからである。
勿論天皇一族には、破った後呑みこんだセム化(ユダヤ化)したシュメール王朝のユダヤの血と、後に聖徳太子の時代に遣って来た純然たるユダヤ族のハタ一族のユダヤの血が混じっているのであろうが、“日本人が黄色人種セム族・本来のユダヤ人の源流”という仮説は無理であり成り立たないのである。
■ヤップ遺伝子を持っていた、日本列島に共存して住んでいた、シュメール人とアイヌ人
(シュメール人は)紀元前9000年頃に、アイヌのヤップ遺伝子を持って中東へ海路民族大移動をし、
メソポタミアの地に人類初のメソポタミヤ文明を開闢した(紀元前9000年)が、
セム族に囲まれて支配し支配されてセムと混血し、
7400年の後にそのアッカド王国が攻め滅ぼされ[註1]、現トルコ領のアナトリア地方に逃げてヒッタイト王国を成した一団と、―――ー 日本に戻って来た一団に分かれた。
日本に戻って来た時、既にセムと混血していたシュメールはアイヌと戦争し、
シュメールの最後の王子が日本武尊であり、弥生人=百済人上陸以前の当時の日本列島原住民の支配民族となり、
■九州にシュメールの王朝 シュメール物部氏が司った出雲大社 名越と三浦と石巻
日本全国に神社を創りその総本山はシュメール物部氏[註2]が司った出雲大社であり、
日本に戻って来て九州に陣取ったシュメールの、当時の本州に於ける拠点は、タケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]の名越[ナゴヤ]一族、海のつわもの三浦一族、ヒッタイトの流れを汲む古代製鉄所の有った石巻であった。
日本にはこのヒッタイトと同じ石巻の製鉄所が古代から有った為に、青銅器時代が無く、鉄器時代が始まっている。
■YAP遺伝子を持っているのは、アイヌ人と中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在した日本に戻ったシュメール人。
元々アイヌが持っていたY染色体の特別な形態のYAP遺伝子を持ち歩き、中東のセム族(ユダヤ人、アラビヤ人)と縄文系日本人の間を介在したのがシュメール人である。今日でもアイヌ系の90%がYAP遺伝子を持っており、縄文系日本人が65%持っており、後YAP遺伝子を持っているのは世界でユダヤ人、アラビヤ人のみである。
そもそも、ユダヤ人がユダヤ教をユダヤ教として定義し、ユダヤ王国やイスラエル王国が国としての形態を持つようになったのは、その遥か昔からシュメールがメソポタミアの地を統治し、
ノアが生きていた頃の紀元前2000年にノアの大洪水から遡る事1000年の紀元前3000年頃にユダヤ教にとってユダヤ人の租である予言者アブラハムが現れ、紀元前2000年にノアの大洪水が起こってから700年から900年経った後で、紀元前1680年を以ってシュメール王国が滅亡し国としてはメソポタミアの地からはシュメールが消え去った後の、
紀元前13世紀にモーセがユダヤ教を整え、紀元前11世紀にイスラエル王国、紀元前10世紀にユダヤ王国が建国されたのであるから、
ユダヤ族の血の中にシュメールが持ち寄ったYAP遺伝子が持ち込まれており、そうなるとノアの大洪水の丁度その時にヤテベ族がセム族から進化発展したとすると、ヤテベ族=ゲルマン人もシュメールの持ち寄ったYAP遺伝子を持っていなければならなくなるが、
実際には今日の一般のゲルマン人がYAP遺伝子を持っていない事実と、ハザールに流れ込んだユダヤ教ヤテベがフン族と混血した時にYAP遺伝子を持っていた事実とから、
ヤテベ・ゲルマンの進化発生は正確には紀元前2000年ノアの大洪水より前、そしてシュメールがメソポタミア文明を中東に開闢した紀元前9000年より前でなければならなくなり、
セムから発生したヤテベ・ゲルマンの中のユダヤ教を捨てなかったヤテベ・ゲルマンのみがアブラハムより遥か以前から民族を形成していたセムと一緒にシュメールからYAP遺伝子を貰い受けた事と成る。
[註1]:正確に言うと、7320年続いたシュメール文明は、シュメール王国のバビロニア第1王朝が紀元前1680年頃にシュメールの王アビ・エシェフの治世を以って滅亡し(紀元前1680年)、シュメールの一団はチグリス・ユーフラテス川の源流のアナトリア地方まで退却して、ヒッタイト王国を創り(紀元前1680年)、
もう一団はシュメール文字で書かれた7320年前の古文書を基に、日本に海路戻った。
九州に陣取ったシュメール王朝の最後の王子が日本武尊である。
又、シュメール民族がメソポタミアの地に有った時期に、ノアの大洪水が起こった正確な年号は紀元前2083年である事が、
シュメールの歴代の王の治世の年代一覧を見た時、グチアン王朝のシャル・カリ・シャッリ王の治世とイギギ王の治世の間に紀元前2083年から紀元前2050年の間が空位となっている事から推定できる。
■出雲大社を司ったシュメール系物部氏の滅亡
[註2]:出雲大社を司ったシュメール系物部氏は後に、高句麗系曽我氏に敗れ滅亡する。
高句麗系曽我氏は百済系中大兄の御王子(後の天智天皇)が百済系中臣鎌足(後の藤原氏)と謀って蘇我入鹿を宮中で暗殺した時に滅亡する。
奥州平泉の藤原氏は蝦夷地に有るにも拘らず、アイヌでもシュメールでもなく、相当純粋な百済系である事が、今日残っているミイラから推察できる。
■出雲大社の旧神道、神社裏手にアラハバキ神 百済族の天皇一族による伊勢神宮
7400年間セム族に囲まれて生活した中東から戻って来た殆どセム化したシュメールが取り仕切っていた列島原住民の出雲大社を中心とした旧神道は、
百済族の天皇一族が伊勢神宮を中心とした新しい神道へと衣替えした時、神社の裏手にアラハバキ神として祭られて今日に至っているが、
この“アラハバキ”とはセム語のアラビヤ語で解釈すると“アラハ”=“アラッハ”=allah=????はアラーの神の意味であり、“アバキ”は“アバック”が「奴隷」の意味で、abakを所有格とする為に語尾に[i]を付けてabaki=of slaveの格活用をして「奴隷の」の意味になっている、と解釈できるのである。つまり“アラハバキ”とは「奴隷の神」の意味で有る。
■天皇家(百済人)と高句麗人の曽我氏との混血の、聖徳太子のマルチ・リンガル
聖徳太子は10人位の人を前にして同時にその10人と会話したとの逸話が有るが、これは実は百済語、高句麗語、シュメールの持って帰ったセム語、新羅語、中国語をマスターしていた聖徳太子が、集まった各国の客人との会話で同時通訳を遣ったと解釈するのが順当であろう。
聖徳太子は天皇家(百済人)と高句麗人の曽我氏との混血で、
新羅語を使って新羅と和を結び、中国語を使って遣隋使、遣唐使を送り、当時セム化して日本に戻ってきていたシュメール人達から学んだシュメール語=セム語を使って、当時滅亡した後秦から新羅経由で失われたユダヤの十士族の一つが日本に遣って来ていたそのユダヤ人“秦野”=相談役と意志の疎通が自由にできた、と見る事ができる。
■シュメール人のシュメール文字と戦闘能力
太古の昔日本を発った頃のアイヌとの平和共存とは違って、8000年後中東から日本に戻ったシュメール族は、今度はアイヌと戦争してしまうのだが、
石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったシュメール人に対して、文字を持たないアイヌ人は、戦術を変更するには司令官たちが一堂に会して合議せねばならない結果、戦闘において個人プレーしか出来ず、戦力に於いて圧倒的に劣っていた。
“海の兵(つわもの)”シュメール人の日本武尊は東国を討ちに行くには至る所、敵と出くわす陸路を避け、必ず海路で移動した。三浦半島の突端の走水(はしりみず)の地に、日本武尊の妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に入水して嵐が収まったという神話が残っているのは海の兵(つわもの)三浦一族[註]もシュメールであった事を意味する。
つまり日本武尊は東国を征伐しに行くのに東国のシュメールの拠点まで海路行き、そこから上陸して、陸路進軍しアイヌと陸上の合戦を行ったと考えられる。
[註}:三浦一族の本拠は、今日その城跡が残る衣笠城(横須賀市の衣笠)である。
■宮崎県美々津川河口の岩場にシュメール文字 宇佐神宮の御物にシュメール文字
シュメールが九州を拠点としていた事は、日本武尊が東国の征伐に向かう為、そこから船出をしたと記録が有る宮崎県(熊本県)美々津川の河口の岩場にシュメール文字が刻まれており、
また日本武尊が東国征伐に出陣する時に饗宴を開いたとの記録で示される今日の大分県宇佐に有る神社の御物にシュメール文字が刻まれた石板が残っている事からも、推察できる。
■九州のシュメール族と、大和の百済族の天皇一族 の戦い
中東から日本に戻ったシュメール族は九州に陣取っていたが、そこに朝鮮半島から百済族の天皇一族が来襲した。しかし文字を持ったシュメールは文字を当時未だ持っていなかった百済族よりも戦争をする上で優っていた。
シュメール側は石片にシュメール文字を刻み込んで、司令官の間で回し読みをさせれば、戦闘中にも戦術の変更が可能であったが、万葉仮名を発明する以前の文字を持たない状態に有った百済族の天皇一族は初戦に敗れ、アイヌが治めている手薄な中国地方の瀬戸内海側を伝って近畿まで逃れ、其処に陣取った。
■シュメール王国の最後の王子 日本武尊は伊吹山に上り、百済族に挟み撃ちを受けて討ち死
日本武尊は九州に陣取ったシュメール王国の最後の王子で、最後にシュメール人タケイナダネ王の尾張名古屋[ナゴヤ]から上陸して伊吹山に上り、百済族に挟み撃ちを受けて討ち死にしたが、
その先何をしようとしていたかというと、琵琶湖の南岸をかすめて、奈良・京都の百済人の天皇一族を討とうとしていたと考えられる。
■天皇一族にシュメールを通してユダヤの血 聖徳太子の時、ユダヤ人秦氏が直接天皇家に血族的に関係
日本武尊が討ち死にして、九州のシュメール王朝も近畿の百済族の天皇一族に攻め滅ぼされ、家系として百済族の天皇一族に呑み込まれる事と成る。
ここに天皇一族にシュメールを通してユダヤの血が混じった経緯が有る。
あるいはその後、聖徳太子の時代に新羅経由で日本に遣って来たユダヤの失われた10氏族の一つの“秦氏”が、日本全国の神社を伊勢神宮系として再編成した際に、日本各地に伊勢神宮系神社擁立の為派遣された分けであるが、そのユダヤ人秦氏がその時期に直接天皇家に血族的に関係したかもしれない。
鎌倉時代から現代史までのシュメール一族
■名越一族と三浦一族 と源頼朝 源氏
三浦一族は、日本武尊が伊吹山で戦死した時に同時に百済族に攻め滅ぼされたシュメールのタケイナダネ王の名古屋[ナゴヤ]から、名越[ナゴヤ]一族が海路逃げて、三浦半島の海のつわもの三浦一族の所に助けを求めて来たので、三浦は名越一族に鎌倉と逗子の境目に領地を与え、名越[ナゴヤ]一族はそこに“名越[ナゴエ]の館”を構えた。
この名越一族は、後に三浦一族が源頼朝を、ぶっちがいになった岩の間を人一人だけ通れる名越切通し、稲村ケ崎切通し、朝比奈切通しによって守られた “陸の要塞”鎌倉に招致して以来、
それまで逗子・鎌倉の境目の名越の地に陣取っていた名越一族は、頼朝とその後の執権北条氏に仕えることに成り、特に元々平家方であったにも拘らず石橋山の合戦以来頼朝に支えたが故に頼朝に重用されたが弱小軍勢しか持っていなかった北条氏により重宝がられた。
少し時代を遡るが、源平の合戦時に、平家方より源氏方の方が海戦に於いて遥かに勝(まさ)っていたのは、源氏方には“海の兵(つわもの)”シュメールの名越一族、三浦一族が付いていたからである。
■元寇とシュメール・名越一族 北条氏と足利尊氏 尊氏は寝返り室町幕府
元寇を迎え撃ったのは北条時宗と言われるが、実は北条氏は弱小軍勢しか持っていなかったために、元寇の際の日本軍の主力はシュメール・名越[ナゴヤ]一族であった。
そのように元寇に於ける日本軍の主力ともなった程強い軍勢であった名越一族は、しかし、鎌倉幕府末代の北条氏に“後醍醐天皇を討て!”との命を受け、名越高家は足利尊氏を副官として京都に攻め上ったが、楠正成、赤松氏の曲者に敗れ討ち死にし、
名越の大軍は雪崩を打って崩壊した。それを見ていて足利尊氏は寝返り、後醍醐天皇と結んで、室町幕府を開いた。
鎌倉では主力軍の名越一族が出払った後、弱小な手勢しか持たなかった執権北条氏の鎌倉幕府は、新田義貞程度の軍勢に稲村ケ崎切通しを超えて襲われただけで、あっけなく滅亡した。
■江戸末期に名越家は会津藩の中枢に
鎌倉時代に養子一人を北条氏から送り込まれて北条氏に取り込まれた名越一族であったが、北条氏の鎌倉時代には日本各地に名越一族から名越越前の守、名越越中の守、名越越後の守、会津の守が送り出され、江戸末期に名越家は会津藩の中枢に有った。
■幕末に官軍に会津戦争で敗れ、名越一族は北海道に屯田兵
会津藩は幕末に官軍に会津戦争で敗れ、名越一族は北海道に屯田兵として落ち延びたが、その際に未だ乳飲み子であった末子・名越俊六は、
屯田兵として北海道の厳しい気候に耐えるには余りに幼過ぎた為に、会津に残った高い位の畑家(日本人の名前で発音が[ハタ][ハタノ]であれば文字に無関係に全てユダヤ)に養子として預けられ成人し、
太平洋戦争末期には本土決戦の総責任者・畑俊六元帥となった。
■敗戦を認める決断をさせた、本土決戦総司令官・畑俊六元帥は
本土決戦総司令官・畑俊六元帥は広島原爆炸裂の際に至近距離の国鉄広島駅構内に居たにも拘らず、殆ど無傷で、直ちに広島現地で救援活動を開始し、
約一週間後に昭和天皇に東京に召喚され、玉音放送の直前の御前会議の直前に、3人の元帥のみを集めて昭和天皇は一つの質問をした。
“本土決戦をしたなら、勝てるか?”というのが昭和天皇が3人の陸軍元帥に尋ねた質問であった。他の2人の元帥は、“良く戦って見せましょう!”と答えたが、広島原爆まで見て来た畑俊六元帥は“勝てる自信は御座いません。”と答えた。
この畑俊六の返答が昭和天皇にとっていよいよ敗戦を認める決断をさせた、と言われる。
この畑俊六元帥はセム化したシュメールの末裔である。
(抜粋引用おわり)
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== FIN ==