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神武イワレヒコ、スサノオ、タケミカツチ、アジスキくん(事代主)、ニギハヤヒ、、はみんな九州(ほぼ火の国)にいた。菊池のアヒラツの神武天皇と蒲智比咩(がまちひめ)。郡浦神社と阿蘇氏の製鉄の歴史。
火の国、菊池のアヒラツの神武天皇と蒲智比咩(がまちひめ)。郡浦神社と阿蘇氏の製鉄の歴史。日本建国古代史まじかる・ツアーにようこそ。
イワレヒコ、スサノオ、タケミカツチ、アジスキくん(事代主)、ニギハヤヒ、タケノウチノスクネ、はみんな九州火の国にいた。。
(以下の2つの記事を転載はじめ)
仮称リアス式
豊久士比泥がわかりましたよ
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-e9c5.html
2010年1月31日 (日)
豊久士比泥別は日向(ひむか)のクニのことらしい。
申し訳ないけど宮崎のヒュウガのことじゃないね。
ヒムカってのはマキムクと同じようなカンジだよ。
マキムクという地名は、「マキ」という特別な地があって、そこに向いている地であるから「マキムク」なんでしょ??「マキ」が主体だね。もちろん槙があったわけじゃないよ。「ミマキイリビコ」の「マキ」であり、「ミマナ」の「マ」と同じ意味だね。マキムクが中心なんじゃなくて「マキ」が中心だね。
「日向」はヒムクでもいいんだな。日に向いているんでしょ??
日は勿論太陽だけども、でも、太陽に向いているのはどこでもそうでしょ??
どこにいたって、日は昇り沈むね。どこも同じだよ。
だからこの「日」は現実の恒星としての太陽じゃない。
日神のことだね。
そして私は雲仙がその日神のおりたつ山だとしている。「高来津座神(たかくつくらのかみ・雲仙にいる神様)」の「高来津座」が雲仙だね。でっかい磐座だよ。もちろん弥生時代に天神を祀る部族がそうしたんだな。対馬と同じタケ信仰だよ。タケ信仰がわからない方は図書館で永留久恵先生の本を借りて読んでね。
だからさ、タカミムスヒとかタケノウチノスクネとかは「タケ」「タカ」がつくんだな。まあ、世間ではこの名前をどう解釈してるのは知りませんけどね。どうせ、太陽が高いからとかいーかげんな解釈なんだろうな。
雲仙が中心なんだよ。日神信仰の。霊地だね。神域。
何度も言いますが、だからと言って島原に邪馬台国があったとかいう意味じゃないんですよ。それ以上だ。だって霊地だから。
だからね、島原側が「日」なんだよ。そしてその島原を囲むように現在の熊本の地があるでしょ??もちろん古代は熊本県も長崎県もないから便宜的にこう書いているだけです。だからね、「日向」は熊本にある。つまり「豊久士比泥別」は熊本にあるんだよ。速日別は彼杵(そのき)と高来(たかく)だね。
んで、この「豊久士比泥」の「豊」は今だによくわからないんだけども、「久士比泥」の方は、「ネ」だし「泥」をあててあるから、干潟のことだろうと思ってたんだよ。でも、干潟で有名なのは有明海の方でしょ??もちろん熊本の方にも干潟はあるんだけども。だからさ、特別な「奇し」「泥」があったんじゃなかろうかと、ふと思ったんだよ。
前も書いたけど「泥炭」だよ。諌早の唐比(からこ・湿地で現代は唐比れんこんが有名な地)には昔泥炭があったんだよ。だから、熊本の八代にもあったんじゃないのかなあと思って、調べてみたらどうやらあったみたい。
泥炭は掘り出して乾かして使うでしょ??だから「干泥」になるんじゃないのかしら。前記事で書いたように、熊本はどうやら雷神系の人たちがいたみたいだからね。八代に泥炭があってそれを使っていたとしたら、鉄器を造る人たちにとってはたいへん都合がいいってことになるでしょ??
泥炭のことなんて文献にないと言われそうだけど、全くかまいません。泥炭なんてあっても使い果したらそれで終わりだしね。燃える水とか燃える石とかがあったんなら燃える泥があってもいいんじゃないの??
後に肥前となる地(松浦地方や佐賀の有明海北岸は除く)と、後に肥後となる地は離れてるでしょ??繋がってない。なのに同じ「肥国」なのは、大昔においてその地に勢力のあった氏族が同じだったからだよ。もともとは海神系で、雷神系の「カツ」だよ。それがアタであり、その一部が「事代主」の「事代」の部分だよ。「事代」ってのは「八代(やしろ・やつしろ)」のことなのかもしれないな。
中臣氏の祖先は「雷大臣」である「中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)」でしょ??この人は対馬と大変関わりが深いね。なぜか??私の説だと説明可能だよ。私はもともと島原と対馬は五島や佐世保や長崎半島を介して繋がっていると考えている。それに八代をたしてみてごらんなさい。全く自然だよ。そして「烏賊」は「イカ」であり「伊古」であり「石凝」であり「爲吾(国)」だよ。「雷土(いかつち)」の語源だね。まさか、ムラジさんがイカ釣りしてたと考えている人はいないでしょ??ちなみに佐世保には「イカツチ(伊加土)」という小字があったらしいけどね。長崎半島には飯香の浦(いかのうら)という港もあるよ。これがまさに「イカ」の「津」だね。
藤原氏は中臣の後裔だけど、東国でしょ??『常陸国風土記』には何とありますか??速日別命が関係してるね。ヒノクニでしょ??一般的には火国で八代のことだね。
オホ氏ってのも神八井耳さんの子孫ですね。オホも雷神系でしょ??『肥前国風土記』で高来津座神に会うのは「神大野宿禰」だよ。キング・オブ・架空の景行さんのパシリンだけど、私は大野宿禰は島原いたオホ系の氏族だろうと考えています。伊古だろうね。伊古遺跡。
仮称リアス式
素戔嗚尊が高天原を追放された理由
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-04f0.html
2010年1月30日 (土)
しつこいですけど、前記事の続きです。も一度引用させてもらう。
『蒲智比咩(がまちひめ)神社と製鉄の歴史
三角の町は郡浦(こうのうら)を中心に発展してきた。明治の終わりまでは三角より、郡浦という名称が一般的だったが、その郡浦に
かつて蒲智比咩神社という社があった。この蒲智比咩とは島原の普賢神社祭神の娘でイザナギ、イザナミの神の孫娘にあたる女神である。
中世の三大実録中に蒲智比咩神社に関するこんな記録がある。
『八七八年(元慶二年)蒲智比咩神社の前の川が真赤に染まり、周辺の草木は全て枯れてしまった。驚いた都の人々がこれは肥後国に異変がおこる前触れだと都の神祇官に申し立てをしたところ、「疾病が流行、もしくは外から敵が攻めてくる」という占いがでた。
そこで十二月、神祇官が宗像神社へお祓いの使いの使いをだした』とあるが、占いの真偽はともかくこの咩異変咩は本物だったようである。
中世、この地方では郡浦地区を中心に、製鉄で繁栄していた。現在もあちらこちらにその製鉄遺跡をみとめることができるが、蒲智比咩神社の川の上流にも官迫(かんざこ)という製鉄があった。
すなわち当時、製鉄用の鉄が川に流れてそれが酸化して川を赤く染めたのであろう。その鉄錆が草木を枯死させたのだと思われる。
郡浦神社と阿蘇氏の勢力
蒲智比咩神社は後に郡浦神社に祀られるが、蒲智比咩神社の祭神、蒲智比咩は阿蘇の国造神社の速瓶玉(はやみかたま)命に嫁いでいる。これは蒲智比咩神社を祀っていたこの地の豪族が阿蘇氏に敗れ神社共々阿蘇氏の支配下に入ったことを意味する。
阿蘇氏が三角に勢力を伸ばしたのは、良港を得るためであった。中世の肥後の港―――玉名の高瀬は菊池氏、川尻は川尻氏、八代は相良氏にそれぞれ治められていたが、三角にはこれらの豪族のいずれにも属してなかったのである。
以後、三角は阿蘇氏の海外貿易の拠点となり阿蘇氏の勢力下におかれる。
郡浦神社が阿蘇、健軍、甲佐の三社と共に阿蘇四社に数えられるのはこの頃からで、もとの祭神、神武天皇と蒲智比咩神は阿蘇三神と併祭されるようになった。これはもちろん阿蘇氏、阿蘇大宮司家の勢力に伴うものである。
近世に入り阿蘇氏が完全に没落し、郡浦神社は阿蘇神社の支配から離れるものの、明治にはまた改めて阿蘇神社の摂社に制定された。阿蘇氏がこの地で衰微したとは言え、細川御殿の志津子姫が阿蘇大宮司に嫁いだり、郡浦手永の初穂料が必ず阿蘇へ納められるなど、三角と阿蘇のつながりは消えなかったのである。』
『熊本県観光サイト なごみ紀行』「三角の歴史」より
●タケミカツチの一族はさ、川をせきとめて上流にいるんだよね。
んで、鉄の原料をおそらくとってた。
引用中の「赤水によって草木が枯れた」ってとこだよ。弥生時代においても、同じことがおきたんじゃなかろうか。私は多良岳で鉄を採ってたんじゃなかろうかと考えている。
山砂鉄。すると下流にある畑は影響を受けるじゃない??これが原因じゃないかしらね。鉄の採取によって甚大な被害をもたらした責任をとらされて追放されたとか。
あるいは、半島の方かもしれないね。半島の方の倭地でそういうことがおこった。「種まき」とも関係があるでしょ??
そうそう、半島に倭人の集落があるとかないとか言われてるね。私はあると思うよ。当然あるよ。弥生時代にホテルはないでしょ??邪馬台国側の「津」があるハズだよ。
なければ交易はできない。当たり前だね。それに、半島の南部はリアス式に入り組んだ地形でしょ??倭人が大好きな地形だよ。海岸線が長いということは、それだけ獲物も多いってことでしょ??いないわけないよ、倭人。縄文時代からいるに決まってるじゃない??同じような地形には同じような生業を持つ人たちがいるさ。基本は同じだね。
縄文時代から、九州側の「津」があるはずだよ。それが弥生時代になると発展して拠点集落みたいになる。馬韓辰韓弁韓の記述の中にも出てくるハズだね。つーか、もともと同じなんだよ。
『 最近、田中聡一は「韓国新石器時代の隆起文土器について」という論文を発表し、韓国南東部出土の隆起文土器の分析を行い、示唆に富む研究を行うとともに、日本の縄文土器との対比を行っている。田中は対馬腰高、腰高尾崎遺跡の共伴関係を基準にして隆起文土器を縄文早期後葉と前期初頭に分けている。これまで多くの編年を緻密な分類法で分析し、証明した点で注目される。
さて隆起文土器の出土範囲は金元龍の「狭海峡地帯」つまり韓国南部から対馬の間、朝鮮海峡を巡る文化とした。韓国南東部では、鰲山里遺跡から韓国有文土器(櫛文土器)の発展がみられ、対馬腰高、腰高尾崎遺跡の隆起文土器共伴の縄文土器は前期を越えないことも理解できた。鰲山里─腰高の韓国土器と縄文前期初頭文化との交流は金元龍ではないがなんとなく「狭海峡地帯」の文化としておきたいような気がする。
五島大板部洞穴の発掘と凡方貝塚五層土器
「狭海峡地帯」に分布する隆起文、隆起線文土器は韓国土器として海峡を挟んで分布することが明らかになった。そして轟、曾畑系の土器と櫛文土器が相互に交流しているといわれたが、土器の胎土の違い、焼成の違い、器面調整の貝殻条痕の有無など今後の研究課題としておきたい。
ここでも「なんとなく」形や文様が似ているということで交流の土器として轟、曾畑式土器と櫛文土器が当てられる。
ところが最近になって「狭海峡地帯」に分布する隆起文、隆起線文土器の共伴研究から、相互の先史土器の交流が明らかになり、「狭海峡地帯」から「越海峡地帯」の文化に発展してゆく様子が次第に明らかとなるようになった。
昭和59年(1984)橘昌信を中心として調査された大板部洞穴は、五島列島福江市の南東12キロの海上に浮かぶ周囲約3キロ、テーブル状の孤島である大板部島にある。島は火山によってできた島で、遺跡は島の中の溶岩洞窟の内部にある。洞窟は開口部(横穴)を入ると上、中洞の二手に別れ、再び合体して奥に縦穴の開口部に到達する。この奥の縦穴開口部の下に海水の溜まり場があり、底に貝塚が形成されている。この水中貝塚から出土した土器が轟式土器である。
復元された土器の形をみると、韓国ソウル市岩寺洞(アムサドン)遺跡出土の櫛文土器を思いだす。両者の形はそれほどよく似た砲弾形の深鉢形土器であった。土器は褐色で口径34センチ、器高37・7センチで、表裏は轟式特有の細かい貝殻条痕で調整され、文様としてミミズ腫れのような細隆起線文が施されていた。細い粘土紐は菱形に重複させて単位文をつくり、それを単位として十分割されていると分析されている。口縁部に刺突文を施し、そこから隆線文を器面全体に施文せいている。土器の特徴から、調査者は轟B式に当てられるとして縄文前期に位置づけている。』
『原始・古代の長崎県』「第二節 海との関わりを持つ文化」より
世間では五島は関係ないと思ってるだろうけどね。でも、南のルートではかなり重要な島になってくるね。
「三角の歴史」の引用の方だけど、「玉名の高瀬は菊池氏、川尻は川尻氏、八代は相良氏にそれぞれ治められていたが、三角にはこれらの豪族のいずれにも属してなかったのである。」とあるね。相良氏ってのがいたんだな。姶良とか吾平と同じだろうね。
だれだって。イワレヒコのヨメさんだったっけ。アヒラツヒメ。
んで「蒲智比咩は阿蘇の国造神社の速瓶玉(はやみかたま)命に嫁いでいる。これは蒲智比咩神社を祀っていたこの地の豪族が阿蘇氏に敗れ神社共々阿蘇氏の支配下に入ったことを意味する」とあるね。いつの時代のことなのかよくわからないけど、
私の脳内では、●「タカミムスヒ」とか●「タケノウチノスクネ」とかの氏族からヨメをおしつけられたように見えるよ。阿蘇の国造神社の速瓶玉が「ハヤミカタマ」という名前になるのは、雷神系の祖先がいるからだよ。
雷神系の有名人。●アジスキくん(事代主)か●タケミカツチでしょ??私の脳内では彼等は双子なんだよ。だからどっちの子孫でも雷神系だね。まあ、●ヤイミミさん(事代主)なんだけどね。
三角が「これらの豪族のいずれにも属してなかった」のなら、いったいどこの豪族に??ということになるでしょ??
私は宗像だろうと思うんだよ。つーか、宗像の前の氏族、原宗像とでもいうのかな。その原宗像氏が八代の海域を治めてたんだと思うけどな。だからその地で宗像神社が権威があったんじゃないの??三角にも宗像氏の領地ってのがあったんじゃないのかな。諌早にはあるからさ。繋がってるんだよな。宗像氏は一応「大国主」の子孫ってことになってるでしょ??
世間はどうだか知らないけど、私は説明ができますよ。だって「大国主」は事代主でもあるからね。カタスミの国に行くじゃない??「ミスミ」だったとしても不自然じゃない。
前も言ったけど、「コトカツクニ」が「アタ」であり、「オオクニ」だよ。出雲にいたのは「ホヒさん」。ホヒさんをもっと称えましょう。ほんとにかわいそうだよ。
事代主は私の脳内では●アジスキくんでもあり、●ニギハヤヒでもある。
ホラ、物部が出てくるでしょ??だから、宗像も物部も祖先は同じなんだよ。どちらも雷神系だけど、宗像の方は海神色が濃いんでしょ??雷神族ももとは海神系の部族だから。
祖先が素戔嗚尊だからだよ。物部も宗像も福岡の北でしょ??ホラ、同じだ。
それにさ、三角は「郡浦(こうのうら)」だったわけでしょ??佐世保の相浦(あいのうら)は昔は「相神浦(あいこうのうら)」だよ。つまり、やっぱりカツさんの地??と思えるね。まあ、単純に川があったんだろうけど?
と思って、地図を見てみた。

五島、橘湾、三角、玉名、菊池など
興味深い地形だよ。「八代海」という文字のとこから「青海小」までの地帯は島か島に近い地形だったかもしれないね。もしそうだったら、佐世保の相浦とそっくりってことになる。
私が最近興味があるのは、現在長崎市と諫早市と雲仙市と南島原市が接している橘湾は昔は千々石(ちぢわ)湾だったんだけど、どうやら橘氏にちなんだ「橘湾」になる前から、橘湾と呼ばれていた地域があるらしいということだ。
私は「橘の小戸」ってのは「立つ」「鼻」じゃないかと考えているんだよ。岸壁状のそりたった岬のことをなんとかの鼻と言うじゃない??そういう「鼻」に挟まれた場所が「小戸」じゃないかと考えているんだな。まあ、そういうところは山のようにあるだろうけどね。
そして、千々石という地名も重要だね。千々石断層があるから、石がゴロゴロしてた可能性もあるでしょ??
●イザナギが剣をふって血を飛ばしたところが「チヂツクイワ」とかいうところだったでしょ??んで、上記のように●伝承としてイザナギの孫が島原にいたってことになってるからね。
何度も言いますが、私は諌早島原から藤津あたりにかけてが元祖「木国」だと考えているし、島原には「有馬」(イザナミの墓があるとかいう?信じてませんけど。)もある。
あ、最近は熊本のことをうだうだ書いてるけど、別に古代の島原人が八代を支配したとかそういう意味じゃないです。卑弥呼がいたのは有明海北岸だし、台与がいたのは宇土半島だと考えてます。ここだけ読んだら誤解されそうなので書いておきますけど。私は邪馬台国島原説を支持してるわけじゃないです。参考にはしてます。
うーん、こういう風に考えると、事代主の墓って八代か宇土にありそう。そういう墓ないのかなあ。弥生の終末期あたりのヤツ。古墳の最初の頃とか。ありすぎるかもね。ヤツシロって名前はさ、「矢」だと思うよ。ニギハヤヒ(事代主)の象徴(だと私が妄想している)である「矢」。「矢の代」。円墳がいいな、円墳希望。
(転載おわり)
== FIN ==