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- CATEGORY人工知能電磁波兵器
マインド・コントロール兵器=後催眠暗示=フロイトの「無意識」と、カルト信者製造原理は地続きである。
フロイトの後催眠暗示が示す「無意識」と「決定論」は、即自オバサンである。
「目覚めることはない」とは、何か。
「目覚めている」つもりの即自オバサンはある不透過な一点に来ると前後不覚に昏睡する。
いまも人間が、覚醒することがない、曇りまくった意識をもつ存在として、この世にうまれてくる、という原理が「なんら変化がなく、続いている」ということは、ほとんどの人間がいまも、「意識の存在法則を変革する」ほどの覚醒をする必要がない、それほどの曇りまくった意識ではない存在である、と自分のことを信じている、ということに人間は常に向かう、ということを強烈に意味している。
●「目覚めることはない」とは、何か。
フロイトが想定した「無意識」と、そこにみられる自由よりも先立つ「決定論」を示す証拠とみなされている有名な「窓を開けに行く」という、後催眠暗示がある。精神分析、深層心理学の教師と学生は、現在でも、まずは、この有名な後催眠暗示を追試するらしい。
柄谷行人にはこんな記述がある。
『 催眠に関して、かって不思議だなと思った経験があった。七月の暑い盛りで浜辺から風を通すために窓が開け放たれていたが、私は談笑の途中で席を立っては、ふと気がつくと、次々と窓を閉めようとしていたのである。
私は催眠の実験台になったとき、「後催眠暗示」をかけられており、催眠を解いてしばらくのちに窓をしめにいくようにさせられていたのだった。
私は理由もなく窓をしめにいったのだが、そのとき私は夢遊状態にあったわけではなく、明晰に自分を意識していたのだ。
もちろんあとから考えての話だが、私は窓をしめにいこうとしながら「寒いなあ」という感じがしていたことは疑いがない。
ただ、もし私が暗示されているのでなければ、私の反省が窓をしめるということが他人の迷惑になるということに向けられているはずで、かえって私の寒さを風邪でもひいたかという疑いに向けたはずだ。
要するに、私自身の意識においては、ある根本的な反省が欠如しているという一点をのぞけば、十分に明晰であり合理的だったのである。
しかし、この一点は、<<なぜ>>という問いが深化していきながら、不徹底なままで引きかえすほかないような地点である。
なぜ窓をしめたか、それは寒かったからだ・・・・。だが、私がいま言っている <<なぜ>>は その種の問いではない。
私の反省が、窓をしめる行為が他人の迷惑になるということ、そして風邪でもひいたかという疑いへは、いわば死角のようにこれらを避け通し、「暗示」という私の行為の原因であるものをまったく知りえぬままに、私は行為の渦中では充分に明晰な意識でありえたのはなぜか。
私はなぜ窓をしめたか。それは、むしろ、
私は <<なぜ>> いまここに 存在しているのか、というような問いにほかならない。
それはおそらく、反省意識がどれほど強くとも決してとどくことのできない、ある不透過な一点に向けられた問いだ。
たとえば、一般化すればこういうことになる。
私が自由にかつ合理的にあることを行為していて、それが何ものかに強いられてやっているにすぎないのだと言われても、どうして納得できるだろうか。
それが他者の行為なら、私はその不条理性をいくらでも指摘しうるし、また反省とは私自身を他者として対象化することである。
だが、ここに生じた納得しがたいものとは、私が私自身を対象化しえないところで発生したのである。それゆえこういうことになる。
決して(※私の意識を超えて、彼らが無意識などと呼ぶ領域で)何ものかが(※決定論として)強いているのではなく、
私が私自身を不十分にしか対象化しえないことが、つまり、私が私自身を徹底的に対象化しえないような仕方で存在してしまっているということが、私の行為を私の意識を超えたものにしているということなのである。』 (柄谷行人『畏怖する人間』より)
===========================
自分が行為したこと、自分に起きたことにたいして、なぜ? と問いを発してもどのように問いかけているのか。
問いかけはある地点に来ると、ほとんどの人間が引き返してしまう、その地点とは何か。
起きたこと行為したことにまつわる矛盾点を、執拗にほとんど自動的に、黙殺してしまう、という人間がとってしまう態度の根拠も、この、ある不透過な一点に来ると引き返すこと、つまり、自分を徹底的に対象化しえないような仕方で人間が存在してしまっている、というところに求められる。
そこにまつわる矛盾点を、執拗にほとんど自動的に、黙殺してしまう、という人間がとってしまう態度
実例を見る
中途半端な地点で引き返した、即自オバサンの即自肯定ゲームが、即自=善を偽装した権力者の、殺人ゲームにワープする。見事に網にかかる。
●即自オバサンの歴史上の罪
平和をいいながら、イラク先制攻撃キャンペーン(イラク攻撃は正当性がある)に参加し、「あらかじめ(イラクの)あの人たちは殺される必要がある」という自分の意識のかたちを、自分にたいして黙殺し忘却しつづける、創価仏教信者をわれわれは、不快にも近くで抱えてきたのである。
不覚に眠りにおちいるようにして、そこからけっして十全に目覚めることがないまま、自己欺瞞を黙殺し忘却する自然的態度は、深く人間にくいこんでいる。
目覚めるということが不可能という壁に到達すると、われわれは、前後不覚に陥り、そこからめざめたときには、前後不覚そのものを忘れ去って、もはや目覚める、ということがないまま、めざめるのだ。
サルトルは語った。(サルトル全集「存在と無」 松浪 信三郎 翻訳 人文書院発行。以下同)
『「自己欺瞞」は、自らが自己欺瞞であることを、知っている(反省以前的に、判断以前的に自己欺瞞を意識している)。しかも、同時に、知らないでいる。
―――――自己欺瞞は、真実を知りながらもその真実を自己にたいして隠している、という限りでは、「虚偽」では全くない。
一方また、真実を自己にたいして隠すためには極めて正確に真実を知りぬいていなければならない、という限りでは、「虚偽」が前提となっている・・・・ 』
========================
●共犯的反省(心理学の自我・即自オバサンの自我世界)と、浄化的反省
ところで――― 「反省」とは、意識の困難にみちた内的分化である。
サルトルによれば、『 反省する意識は、反省される意識であり 』、反省するものは、反省されるものから完全に自己を切り離すことができないし、反省されるものを「一つの観点」から包括することもできない。
反省は『 ひとつの閃光的な直観であり、凹凸もなく、出発点も到達点もない直観であり、すべては同時に、一種の絶対的な近親性において与えられる。』
『 にもかかわらず、この閃光的な直観から逸脱するように、反省が反省されるものを「対象」としてとらえる「一つの観点」に立つやいなや、反省は反省されるものの背後に、反省されるものがそれであり、反省するものがそれであるべきひとつの「即自」を現れさせる。』
『 かかる即自は「対自としての」反省されるものが「即自」のなかに投影されたものである 』。
ようするに、自己を「対象化」する反省とは、対自としてある意識をあらかじめ即自とみなし即自として回復するという、「在るものは在る」としての共犯的な再認にすぎない。
『 そこでは、反省は、対自としての反省されるものの背後に、あらかじめ「在るものは在る」という「肯定」を素描していることになる。そこでは反省は、反省するものが、それであらぬと同時に、私はそれであると、「肯定」しようとするためにある。これは自己欺瞞的な肯定である。
こうした「共犯的反省」は、自己欺瞞的であることによって、意識の根源的な自己欺瞞を、自己欺瞞として捉えることに挫折せざるをえない。「真っ正直」と同様、こうした人間の反省はそれゆえ、二重に自己欺瞞である。』
●「自我」と呼びならわされている領域 外から瞭められ彫像となった意識 心理学者が研究対象にしている「心的事実」
そこには意識と存在の不正な詐欺的「密着」がある。
共犯的反省によって肯定され回復される即自は、われわれの日常で「自我」と呼びならわされている領域に相当する。
『 到達された「私」が結局はその出発においてあった「肯定」=「信仰」の表現であることになるこの即自的自我は、出発点である意識の純粋な自己性のひとつの誤認的結晶であり、外から瞭められ彫像となった意識である。』
そして、心理学者が研究対象にしている「心的事実」というものも、
『 このように「対自を即自とみなし」て直観するときの、反省されるものの背後にあって<<織りなされた経過にみる諸形式の実体性そのもの>>に他ならない。意識を事物化し、意識が対自=自発性であることを見ようとしなかったために、心理学は、そこから出てくる「無意識」(深層・・、潜在・・)という超越を仮設し、意識とそれらを団子のように重ねたのである。』
こうしたサルトルによる、心理学者の通俗的で凡庸な唯物的な「手つき」への告発にたいして、日本でも、人間の心への心理学者のその「手つき」は批判されている。
『 ユングが、<無意識>や、その下層の<集合的無意識>を実体化していることである。・・・
さらに、もうひとつは、個人的な<無意識>と、集合的な<無意識>とを、だんごのように重ねていることである。・・・
わたしたちの考えからすれば、個人的と性的(男性と女性類型)と共同的とは、まったく位相を異にしているため、だんごのように重ねることはできない。ユングの心的モデルの弱点は、フロイトと同じように、個人の心身相関の領域を、人類の歴史的な心性と対応させ、これが<記憶>と<器質>を介して現存する実体としてみなしているところからきている。』 (吉本隆明 「書物の解体学」)
===================
ところが、同じ日本では、東西哲学研究所(創価外郭団体)等では、あるいは創価本部の教学では、仏法での唯識や九識論を、この心理学的解釈で解釈してしまっている。だんごのように識を重ねて、仏法に反し実体論化して、即自オバサン化している。ここにも、信仰者を含める心理学的思考に染まった現代人が、権力に親密となる、ひとつの素因をみることができる。
■東西哲学研究所(創価外郭団体)等では唯識や九識論をフロイトやユングの心理学で解釈し仏法を仏法に反し実体論化にして信じている。
実例を見る
釈迦と日蓮の仏法を心理学で密教化。無意識が現実を決定する、集合的無意識という業、右脳左脳という器官決定論、過去世遡及、思考は現実化する、といった凡庸な心理学の実体論で、仏法を捉えている、という典型的な例。
――――― 宿業はどこに形成されるか。 2007年のセミナー(WEB上の創価信者の掲示板に載っていた)
『 宿業はどこに形成されるか。』
業というものは潜在意識という無意識の世界に形成される。この無意識の部分がどうなっているかによってその人の、幸、不幸が決まります。その潜在意識を徹底的に研究しているのが心理学であり、宗教であります。
この無意識の世界は、イメージの集合場所です。ものすごく広い空間にあらゆる過去のものがぎっしり詰まっている。
それは全部脳細胞の中にあるんです。
我々が生まれてきてから今日に至るまで、いろんな事を見たり聞いたりしますが、全部それが詰まっています。お腹にいる時、お母さんの歌った歌まで入っています。それのみならず自分のお父さん、お祖父さん、そのまた祖先まで、何千年前までのイメージを受け継いで入っています。これが遺伝子というものです。これがまた自分の子孫に伝わる。
だから無意識の世界のイメージの状態になっているかによって、その人の人生が決まります。
無意識のイメージの状態がその人の人生そのものなんです。
また、事故の逢い方、交通事故に逢う人ってしょっちゅう逢うんですよ。
逢わない人は、ほとんど逢わないです。これは心理学でもよく使われているテーマです。
このような人生を過去に遡って調べていくと、その祖先も必ず事故に逢っているんです。そういうイメージを受け継いでいますから。病気も同じような病気で死んでいます。受け継いでいるんです。
寿命も先祖10代ぐらいまで遡って調べるとほとんど平均寿命が同じです。例えば離婚している家系はいつも離婚しています。
要は、無意識のイメージの状態が一切を決めて、我々はあと何年生きるか、どんな事で悩んで苦しむか、どんな人と出会うか、全部無意識のなせる業であると心理学の世界では科学的に解明されていることなのです。
・・・・・・中略・・・・・
例えば、今とんでもない病気になったら、ありがとうございます。これで自分の宿業が切れました、と祈る。心から病気になったことを感謝する。今、家の隣に意地悪婆さんがいます。お婆さんありがとう!こういう気持ち、主人と上手くいかない、そのことも感謝する。これによって何千年という過去の宿業が私の段階で切れる、ありがとうございますって感謝しちゃう。
問題の次です。3番目、未来を感謝する。それは具体的に何年何月何時何分にこの問題が解決する、とイメージを作っちゃう。
例えば、病気だったらもう治らないといわれても関係ない。自分で何年何月何時何分に治ると決める。もっと言うと「治りました」と過去形にしちゃう。治ったというイメージをしながら、感謝するんです。
私も過去形で祈っています。三年後を過去形にしちゃう。ちなみに名誉会長は500年後まで学会のイメージを終えられたそうです。今年から501年に入っている。
祈りをイメージする事が一番大事なんです。だから自分は何歳まで生きるって決めちゃうんです。自分はこの病気を必ず治すって決めちゃうんです。
私のセミナーには大勢の方が来ます。
その中で末期ガンの方が14名、全部治った。治療する術も無い方もいました。だから家に帰されちゃうんですね。私のセミナーに担架で来た人もいます。結局入会しました。
自分でイメージを作りました。(癌が)消えるというイメージを。それで2ヶ月で消えました。その患者さんを担当した主治医の方も入会しました。』
===============---
このセミナーで言われた、こうした思考と行為の内容、それはまさに、日本の戦後に大繁殖した「カルト」現象の、その製造原理そのものである。
仏法を即自オバサン化した、心理学信仰にすぎない、
仏法心理学一派の、問題点。
心理学の、『 心的モデルの弱点は、フロイトと同じように、個人の心身相関の領域を、人類の歴史的な心性と対応させ、これが<記憶>と<器質>を介して現存する実体としてみなしているところからきている。』
『 そこでは、反省は、対自としての反省されるものの背後に、あらかじめ「在るものは在る」という「肯定」を素描していることになる。そこでは反省は、反省するものが、それであらぬと同時に、私はそれであると、「肯定」しようとするためにある。これは自己欺瞞的な肯定である。』
『 到達された「私」が結局はその出発においてあった「肯定」=「信仰」の表現であることになるこの即自的自我は、出発点である意識の純粋な自己性のひとつの誤認的結晶であり、外から瞭められ彫像となった意識である。』
心理学の心的事実を生み出すこうした、『「共犯的反省」は、自己欺瞞的であることによって、意識の根源的な自己欺瞞を、自己欺瞞として捉えることに挫折せざるをえない。「真っ正直」と同様、こうした人間の反省はそれゆえ、二重に自己欺瞞である。』
心理学者が研究対象にしている「心的事実」というものは、
『 このように「対自を即自とみなし」て直観するときの、反省されるものの背後にあって<<織りなされた経過にみる諸形式の実体性そのもの>>に他ならない。
意識を事物化し、意識が対自=自発性であることを見ようとしなかったために、心理学は、そこから出てくる「無意識」(深層・・、潜在・・)という超越を仮設し、意識とそれらを団子のように重ねたのである。』
そこには意識と存在の不正な詐欺的「密着」がある。この不正な「密着」が、日常の人間の思考と権力の思考を、偽装された「肯定」という共通項で共振させ、日常の人間と、権力という、自己欺瞞を隠すことで成り立つこの二者を、親密化させる、ということになる。
●マインド・コントロール兵器=後催眠暗示=フロイトの「無意識」と、カルト信者製造原理は地続きである。
偽装された肯定と自己欺瞞を隠すことで成り立つ、このカルト製造原理は、結局、何をもたらしたのか。
このセミナーで、癌細胞が消えた、というはなしから、仏法は真実だ、ちからがある、と判断と結論をえた、というひとがいたと思われる。即自オバサンの決心のトリガーを弾く最大のポイントだ。
癌細胞が消えた、と言う事象は、めずらしいことではない。心的事象によってかのようにして、マクロファージを増殖させ、まるで放射性物質がベータ崩壊し安全な物質に原子転換するようにして、癌細胞を消滅させることは、つねに起きえる。
日蓮創価の心理学信心によってのみ、癌細胞が消えることが可能なわけではない。癌細胞が消えたことから、日蓮創価の心理学仏法は真実だということが、またその心理学信仰心が正しいということが、導き出されるわけではない。
癌細胞を消す事が出来、家庭不和や職場の人間関係の悩みや経済的な苦境を、さまざまな人生上の問題を、解決し、それらをひとりの人間の過去から現在までの集積として総和しても、それでも、哲学や仏教が問題とし、それに答えようとしている地点には、来てしまうということはない。
むしろ、癌細胞を消す事が出来て、宗教の地点に来ないのが、問題となる。
癌細胞を消す事が出来て、イラクを先制攻撃しあらかじめあのひとたちは死んでもいいとするのが、問題となり、
津波と核汚染という侵ぴつ難を防げないだけでなく、それどころかこの、他国を侵ぴつする勢力にしっかりと囲い込まれていること、この東日本の難を含む、世界権力層によるこの数十年にわたる経済金融攻撃から、日本の三権の権力機構を隷米化する工作までの、各レベルの日本への攻撃に、創価が日本を破壊する売国奴な主要勢力ないし個別の工作員群として加担している、創価が世界権力層第六天の魔王の下僕となりさがった現状を、放置したままの、500年の祈りが、問題となる。
ジャパン・ハンドラーズの勢力、ジョセフ・ナイとつながり、アーミテージとつながり、CSISとつながり、在日朝鮮系偽右翼日本財団とつながり、CIAポダム正力の読売とつながり、選挙でCIAユダヤ勢力在日朝鮮系統一教会とつながり、人権圧力団体のユダヤ勢力サイモンウィゼンタールとつながり、キッシンジャーとつながり、デビッド・ロックフェラーが設立し所有し関与しつづける機関につながって、ユダヤ金融資本グローバリストの新自由主義に染まり、小泉竹中勢力とともに日本を破壊する売国奴工作員として「生かされて」いる創価の信者は、第六天の行者と言われても、法華経の行者とは言われない。
この現状を、まさか仏界だと?
●王立国際問題研究所(RIIA)、タヴィストック研究所、マインド・コントロール兵器=後催眠暗示=フロイトの「無意識」、と地続きで繋がるカルト信者製造原理は、権力を永久に肯定する「癌が心理学的無意識効果で消滅した」という、みみっちい結果と巨悪などす黒い副産物をもたらすだけ。
癌が心理学的無意識効果で消滅したと宗教団体が宣伝する裏には、権力は何をしていたかという巨悪をスピンさせる動きがある
。
癌の治療法はすでに完成していて、それを世界権力層が弾圧し、その治療法をかっぱらい、独占しようとしてきた、という事情が存在する。
さらには、世界権力層は、生物が癌になる原因、メカニスム、癌を発生させる周波数の情報を、独占しようとし、ついには、人間を癌にする悪魔の電磁波兵器をつくり、その使用を独占している。
すると、どういうことが起こるか。ひとりのガン患者にたいして、癌細胞を電子を一個与えることで原子転換させる治療をおこないながら、同時に、免疫活動を破壊し癌細胞を作る悪魔の電磁波照射攻撃がおこなわれる。
== FIN ==
「目覚めることはない」とは、何か。
「目覚めている」つもりの即自オバサンはある不透過な一点に来ると前後不覚に昏睡する。
いまも人間が、覚醒することがない、曇りまくった意識をもつ存在として、この世にうまれてくる、という原理が「なんら変化がなく、続いている」ということは、ほとんどの人間がいまも、「意識の存在法則を変革する」ほどの覚醒をする必要がない、それほどの曇りまくった意識ではない存在である、と自分のことを信じている、ということに人間は常に向かう、ということを強烈に意味している。
●「目覚めることはない」とは、何か。
フロイトが想定した「無意識」と、そこにみられる自由よりも先立つ「決定論」を示す証拠とみなされている有名な「窓を開けに行く」という、後催眠暗示がある。精神分析、深層心理学の教師と学生は、現在でも、まずは、この有名な後催眠暗示を追試するらしい。
柄谷行人にはこんな記述がある。
『 催眠に関して、かって不思議だなと思った経験があった。七月の暑い盛りで浜辺から風を通すために窓が開け放たれていたが、私は談笑の途中で席を立っては、ふと気がつくと、次々と窓を閉めようとしていたのである。
私は催眠の実験台になったとき、「後催眠暗示」をかけられており、催眠を解いてしばらくのちに窓をしめにいくようにさせられていたのだった。
私は理由もなく窓をしめにいったのだが、そのとき私は夢遊状態にあったわけではなく、明晰に自分を意識していたのだ。
もちろんあとから考えての話だが、私は窓をしめにいこうとしながら「寒いなあ」という感じがしていたことは疑いがない。
ただ、もし私が暗示されているのでなければ、私の反省が窓をしめるということが他人の迷惑になるということに向けられているはずで、かえって私の寒さを風邪でもひいたかという疑いに向けたはずだ。
要するに、私自身の意識においては、ある根本的な反省が欠如しているという一点をのぞけば、十分に明晰であり合理的だったのである。
しかし、この一点は、<<なぜ>>という問いが深化していきながら、不徹底なままで引きかえすほかないような地点である。
なぜ窓をしめたか、それは寒かったからだ・・・・。だが、私がいま言っている <<なぜ>>は その種の問いではない。
私の反省が、窓をしめる行為が他人の迷惑になるということ、そして風邪でもひいたかという疑いへは、いわば死角のようにこれらを避け通し、「暗示」という私の行為の原因であるものをまったく知りえぬままに、私は行為の渦中では充分に明晰な意識でありえたのはなぜか。
私はなぜ窓をしめたか。それは、むしろ、
私は <<なぜ>> いまここに 存在しているのか、というような問いにほかならない。
それはおそらく、反省意識がどれほど強くとも決してとどくことのできない、ある不透過な一点に向けられた問いだ。
たとえば、一般化すればこういうことになる。
私が自由にかつ合理的にあることを行為していて、それが何ものかに強いられてやっているにすぎないのだと言われても、どうして納得できるだろうか。
それが他者の行為なら、私はその不条理性をいくらでも指摘しうるし、また反省とは私自身を他者として対象化することである。
だが、ここに生じた納得しがたいものとは、私が私自身を対象化しえないところで発生したのである。それゆえこういうことになる。
決して(※私の意識を超えて、彼らが無意識などと呼ぶ領域で)何ものかが(※決定論として)強いているのではなく、
私が私自身を不十分にしか対象化しえないことが、つまり、私が私自身を徹底的に対象化しえないような仕方で存在してしまっているということが、私の行為を私の意識を超えたものにしているということなのである。』 (柄谷行人『畏怖する人間』より)
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自分が行為したこと、自分に起きたことにたいして、なぜ? と問いを発してもどのように問いかけているのか。
問いかけはある地点に来ると、ほとんどの人間が引き返してしまう、その地点とは何か。
起きたこと行為したことにまつわる矛盾点を、執拗にほとんど自動的に、黙殺してしまう、という人間がとってしまう態度の根拠も、この、ある不透過な一点に来ると引き返すこと、つまり、自分を徹底的に対象化しえないような仕方で人間が存在してしまっている、というところに求められる。
そこにまつわる矛盾点を、執拗にほとんど自動的に、黙殺してしまう、という人間がとってしまう態度
実例を見る
中途半端な地点で引き返した、即自オバサンの即自肯定ゲームが、即自=善を偽装した権力者の、殺人ゲームにワープする。見事に網にかかる。
●即自オバサンの歴史上の罪
平和をいいながら、イラク先制攻撃キャンペーン(イラク攻撃は正当性がある)に参加し、「あらかじめ(イラクの)あの人たちは殺される必要がある」という自分の意識のかたちを、自分にたいして黙殺し忘却しつづける、創価仏教信者をわれわれは、不快にも近くで抱えてきたのである。
不覚に眠りにおちいるようにして、そこからけっして十全に目覚めることがないまま、自己欺瞞を黙殺し忘却する自然的態度は、深く人間にくいこんでいる。
目覚めるということが不可能という壁に到達すると、われわれは、前後不覚に陥り、そこからめざめたときには、前後不覚そのものを忘れ去って、もはや目覚める、ということがないまま、めざめるのだ。
サルトルは語った。(サルトル全集「存在と無」 松浪 信三郎 翻訳 人文書院発行。以下同)
『「自己欺瞞」は、自らが自己欺瞞であることを、知っている(反省以前的に、判断以前的に自己欺瞞を意識している)。しかも、同時に、知らないでいる。
―――――自己欺瞞は、真実を知りながらもその真実を自己にたいして隠している、という限りでは、「虚偽」では全くない。
一方また、真実を自己にたいして隠すためには極めて正確に真実を知りぬいていなければならない、という限りでは、「虚偽」が前提となっている・・・・ 』
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●共犯的反省(心理学の自我・即自オバサンの自我世界)と、浄化的反省
ところで――― 「反省」とは、意識の困難にみちた内的分化である。
サルトルによれば、『 反省する意識は、反省される意識であり 』、反省するものは、反省されるものから完全に自己を切り離すことができないし、反省されるものを「一つの観点」から包括することもできない。
反省は『 ひとつの閃光的な直観であり、凹凸もなく、出発点も到達点もない直観であり、すべては同時に、一種の絶対的な近親性において与えられる。』
『 にもかかわらず、この閃光的な直観から逸脱するように、反省が反省されるものを「対象」としてとらえる「一つの観点」に立つやいなや、反省は反省されるものの背後に、反省されるものがそれであり、反省するものがそれであるべきひとつの「即自」を現れさせる。』
『 かかる即自は「対自としての」反省されるものが「即自」のなかに投影されたものである 』。
ようするに、自己を「対象化」する反省とは、対自としてある意識をあらかじめ即自とみなし即自として回復するという、「在るものは在る」としての共犯的な再認にすぎない。
『 そこでは、反省は、対自としての反省されるものの背後に、あらかじめ「在るものは在る」という「肯定」を素描していることになる。そこでは反省は、反省するものが、それであらぬと同時に、私はそれであると、「肯定」しようとするためにある。これは自己欺瞞的な肯定である。
こうした「共犯的反省」は、自己欺瞞的であることによって、意識の根源的な自己欺瞞を、自己欺瞞として捉えることに挫折せざるをえない。「真っ正直」と同様、こうした人間の反省はそれゆえ、二重に自己欺瞞である。』
●「自我」と呼びならわされている領域 外から瞭められ彫像となった意識 心理学者が研究対象にしている「心的事実」
そこには意識と存在の不正な詐欺的「密着」がある。
共犯的反省によって肯定され回復される即自は、われわれの日常で「自我」と呼びならわされている領域に相当する。
『 到達された「私」が結局はその出発においてあった「肯定」=「信仰」の表現であることになるこの即自的自我は、出発点である意識の純粋な自己性のひとつの誤認的結晶であり、外から瞭められ彫像となった意識である。』
そして、心理学者が研究対象にしている「心的事実」というものも、
『 このように「対自を即自とみなし」て直観するときの、反省されるものの背後にあって<<織りなされた経過にみる諸形式の実体性そのもの>>に他ならない。意識を事物化し、意識が対自=自発性であることを見ようとしなかったために、心理学は、そこから出てくる「無意識」(深層・・、潜在・・)という超越を仮設し、意識とそれらを団子のように重ねたのである。』
こうしたサルトルによる、心理学者の通俗的で凡庸な唯物的な「手つき」への告発にたいして、日本でも、人間の心への心理学者のその「手つき」は批判されている。
『 ユングが、<無意識>や、その下層の<集合的無意識>を実体化していることである。・・・
さらに、もうひとつは、個人的な<無意識>と、集合的な<無意識>とを、だんごのように重ねていることである。・・・
わたしたちの考えからすれば、個人的と性的(男性と女性類型)と共同的とは、まったく位相を異にしているため、だんごのように重ねることはできない。ユングの心的モデルの弱点は、フロイトと同じように、個人の心身相関の領域を、人類の歴史的な心性と対応させ、これが<記憶>と<器質>を介して現存する実体としてみなしているところからきている。』 (吉本隆明 「書物の解体学」)
===================
ところが、同じ日本では、東西哲学研究所(創価外郭団体)等では、あるいは創価本部の教学では、仏法での唯識や九識論を、この心理学的解釈で解釈してしまっている。だんごのように識を重ねて、仏法に反し実体論化して、即自オバサン化している。ここにも、信仰者を含める心理学的思考に染まった現代人が、権力に親密となる、ひとつの素因をみることができる。
■東西哲学研究所(創価外郭団体)等では唯識や九識論をフロイトやユングの心理学で解釈し仏法を仏法に反し実体論化にして信じている。
実例を見る
釈迦と日蓮の仏法を心理学で密教化。無意識が現実を決定する、集合的無意識という業、右脳左脳という器官決定論、過去世遡及、思考は現実化する、といった凡庸な心理学の実体論で、仏法を捉えている、という典型的な例。
――――― 宿業はどこに形成されるか。 2007年のセミナー(WEB上の創価信者の掲示板に載っていた)
『 宿業はどこに形成されるか。』
業というものは潜在意識という無意識の世界に形成される。この無意識の部分がどうなっているかによってその人の、幸、不幸が決まります。その潜在意識を徹底的に研究しているのが心理学であり、宗教であります。
この無意識の世界は、イメージの集合場所です。ものすごく広い空間にあらゆる過去のものがぎっしり詰まっている。
それは全部脳細胞の中にあるんです。
我々が生まれてきてから今日に至るまで、いろんな事を見たり聞いたりしますが、全部それが詰まっています。お腹にいる時、お母さんの歌った歌まで入っています。それのみならず自分のお父さん、お祖父さん、そのまた祖先まで、何千年前までのイメージを受け継いで入っています。これが遺伝子というものです。これがまた自分の子孫に伝わる。
だから無意識の世界のイメージの状態になっているかによって、その人の人生が決まります。
無意識のイメージの状態がその人の人生そのものなんです。
また、事故の逢い方、交通事故に逢う人ってしょっちゅう逢うんですよ。
逢わない人は、ほとんど逢わないです。これは心理学でもよく使われているテーマです。
このような人生を過去に遡って調べていくと、その祖先も必ず事故に逢っているんです。そういうイメージを受け継いでいますから。病気も同じような病気で死んでいます。受け継いでいるんです。
寿命も先祖10代ぐらいまで遡って調べるとほとんど平均寿命が同じです。例えば離婚している家系はいつも離婚しています。
要は、無意識のイメージの状態が一切を決めて、我々はあと何年生きるか、どんな事で悩んで苦しむか、どんな人と出会うか、全部無意識のなせる業であると心理学の世界では科学的に解明されていることなのです。
・・・・・・中略・・・・・
例えば、今とんでもない病気になったら、ありがとうございます。これで自分の宿業が切れました、と祈る。心から病気になったことを感謝する。今、家の隣に意地悪婆さんがいます。お婆さんありがとう!こういう気持ち、主人と上手くいかない、そのことも感謝する。これによって何千年という過去の宿業が私の段階で切れる、ありがとうございますって感謝しちゃう。
問題の次です。3番目、未来を感謝する。それは具体的に何年何月何時何分にこの問題が解決する、とイメージを作っちゃう。
例えば、病気だったらもう治らないといわれても関係ない。自分で何年何月何時何分に治ると決める。もっと言うと「治りました」と過去形にしちゃう。治ったというイメージをしながら、感謝するんです。
私も過去形で祈っています。三年後を過去形にしちゃう。ちなみに名誉会長は500年後まで学会のイメージを終えられたそうです。今年から501年に入っている。
祈りをイメージする事が一番大事なんです。だから自分は何歳まで生きるって決めちゃうんです。自分はこの病気を必ず治すって決めちゃうんです。
私のセミナーには大勢の方が来ます。
その中で末期ガンの方が14名、全部治った。治療する術も無い方もいました。だから家に帰されちゃうんですね。私のセミナーに担架で来た人もいます。結局入会しました。
自分でイメージを作りました。(癌が)消えるというイメージを。それで2ヶ月で消えました。その患者さんを担当した主治医の方も入会しました。』
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このセミナーで言われた、こうした思考と行為の内容、それはまさに、日本の戦後に大繁殖した「カルト」現象の、その製造原理そのものである。
仏法を即自オバサン化した、心理学信仰にすぎない、
仏法心理学一派の、問題点。
心理学の、『 心的モデルの弱点は、フロイトと同じように、個人の心身相関の領域を、人類の歴史的な心性と対応させ、これが<記憶>と<器質>を介して現存する実体としてみなしているところからきている。』
『 そこでは、反省は、対自としての反省されるものの背後に、あらかじめ「在るものは在る」という「肯定」を素描していることになる。そこでは反省は、反省するものが、それであらぬと同時に、私はそれであると、「肯定」しようとするためにある。これは自己欺瞞的な肯定である。』
『 到達された「私」が結局はその出発においてあった「肯定」=「信仰」の表現であることになるこの即自的自我は、出発点である意識の純粋な自己性のひとつの誤認的結晶であり、外から瞭められ彫像となった意識である。』
心理学の心的事実を生み出すこうした、『「共犯的反省」は、自己欺瞞的であることによって、意識の根源的な自己欺瞞を、自己欺瞞として捉えることに挫折せざるをえない。「真っ正直」と同様、こうした人間の反省はそれゆえ、二重に自己欺瞞である。』
心理学者が研究対象にしている「心的事実」というものは、
『 このように「対自を即自とみなし」て直観するときの、反省されるものの背後にあって<<織りなされた経過にみる諸形式の実体性そのもの>>に他ならない。
意識を事物化し、意識が対自=自発性であることを見ようとしなかったために、心理学は、そこから出てくる「無意識」(深層・・、潜在・・)という超越を仮設し、意識とそれらを団子のように重ねたのである。』
そこには意識と存在の不正な詐欺的「密着」がある。この不正な「密着」が、日常の人間の思考と権力の思考を、偽装された「肯定」という共通項で共振させ、日常の人間と、権力という、自己欺瞞を隠すことで成り立つこの二者を、親密化させる、ということになる。
●マインド・コントロール兵器=後催眠暗示=フロイトの「無意識」と、カルト信者製造原理は地続きである。
偽装された肯定と自己欺瞞を隠すことで成り立つ、このカルト製造原理は、結局、何をもたらしたのか。
このセミナーで、癌細胞が消えた、というはなしから、仏法は真実だ、ちからがある、と判断と結論をえた、というひとがいたと思われる。即自オバサンの決心のトリガーを弾く最大のポイントだ。
癌細胞が消えた、と言う事象は、めずらしいことではない。心的事象によってかのようにして、マクロファージを増殖させ、まるで放射性物質がベータ崩壊し安全な物質に原子転換するようにして、癌細胞を消滅させることは、つねに起きえる。
日蓮創価の心理学信心によってのみ、癌細胞が消えることが可能なわけではない。癌細胞が消えたことから、日蓮創価の心理学仏法は真実だということが、またその心理学信仰心が正しいということが、導き出されるわけではない。
癌細胞を消す事が出来、家庭不和や職場の人間関係の悩みや経済的な苦境を、さまざまな人生上の問題を、解決し、それらをひとりの人間の過去から現在までの集積として総和しても、それでも、哲学や仏教が問題とし、それに答えようとしている地点には、来てしまうということはない。
むしろ、癌細胞を消す事が出来て、宗教の地点に来ないのが、問題となる。
癌細胞を消す事が出来て、イラクを先制攻撃しあらかじめあのひとたちは死んでもいいとするのが、問題となり、
津波と核汚染という侵ぴつ難を防げないだけでなく、それどころかこの、他国を侵ぴつする勢力にしっかりと囲い込まれていること、この東日本の難を含む、世界権力層によるこの数十年にわたる経済金融攻撃から、日本の三権の権力機構を隷米化する工作までの、各レベルの日本への攻撃に、創価が日本を破壊する売国奴な主要勢力ないし個別の工作員群として加担している、創価が世界権力層第六天の魔王の下僕となりさがった現状を、放置したままの、500年の祈りが、問題となる。
ジャパン・ハンドラーズの勢力、ジョセフ・ナイとつながり、アーミテージとつながり、CSISとつながり、在日朝鮮系偽右翼日本財団とつながり、CIAポダム正力の読売とつながり、選挙でCIAユダヤ勢力在日朝鮮系統一教会とつながり、人権圧力団体のユダヤ勢力サイモンウィゼンタールとつながり、キッシンジャーとつながり、デビッド・ロックフェラーが設立し所有し関与しつづける機関につながって、ユダヤ金融資本グローバリストの新自由主義に染まり、小泉竹中勢力とともに日本を破壊する売国奴工作員として「生かされて」いる創価の信者は、第六天の行者と言われても、法華経の行者とは言われない。
この現状を、まさか仏界だと?
●王立国際問題研究所(RIIA)、タヴィストック研究所、マインド・コントロール兵器=後催眠暗示=フロイトの「無意識」、と地続きで繋がるカルト信者製造原理は、権力を永久に肯定する「癌が心理学的無意識効果で消滅した」という、みみっちい結果と巨悪などす黒い副産物をもたらすだけ。
癌が心理学的無意識効果で消滅したと宗教団体が宣伝する裏には、権力は何をしていたかという巨悪をスピンさせる動きがある
。
癌の治療法はすでに完成していて、それを世界権力層が弾圧し、その治療法をかっぱらい、独占しようとしてきた、という事情が存在する。
さらには、世界権力層は、生物が癌になる原因、メカニスム、癌を発生させる周波数の情報を、独占しようとし、ついには、人間を癌にする悪魔の電磁波兵器をつくり、その使用を独占している。
すると、どういうことが起こるか。ひとりのガン患者にたいして、癌細胞を電子を一個与えることで原子転換させる治療をおこないながら、同時に、免疫活動を破壊し癌細胞を作る悪魔の電磁波照射攻撃がおこなわれる。
== FIN ==